風雲急、各地の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:58 UTC 版)
1874年(明治7年)には江藤新平の佐賀の乱、1876年(明治9年)には上野謙吾等による熊本の神風連の乱、同じく今村百八郎等の秋月の乱、山口には前原一誠の萩の乱が相継いで発生した。何れも明治政府の措置に対する不平を行動に起こしたものであった。南予においても士族の間には政府転覆の計画が進められていた。上京し木戸孝允をはじめ要職の大官を暗殺し、替わって西郷隆盛を擁立する、もし西郷に支障のある場合は桐野利秋を担ぐというのである。暫く時機をの到来を待っていた処に、鹿児島の風雲急を告げる情報が入ってきた。開戦となれば豊予海峡を遮断して、ここで政府海軍を阻止し、戦況を鹿児島に有利に導き、勝ちに乗じて上京し、一挙に政府を転覆させるという作戦に変更した。その為にはどうしても鹿児島と連絡を取る必要がある。この重要な使命を受け派遣されたのは宇和島の士族吉田虎一であった。彼は藩政時代には御庭番を勤めた人物で役目柄政府筋には顔見知りがいない。こうして彼は特使として単身鹿児島に赴いた。その後1877年(明治10年)、所謂西南戦争に参加することになる。一方西南戦争は日を追う毎に厳しさを増した。
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