モンケの治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 17:37 UTC 版)
オゴデイの死後、第3代皇帝グユクの短い治世を経て第4代皇帝モンケが即位すると、高智耀は儒人免疫の再認可のためにカラコルムの新帝モンケの下を訪れた。モンケとの対面を許された高智耀は儒学の有用性を力説したため、高智耀の言を受け入れたモンケによって旧西夏領のみならず、旧金朝領においても儒人免役が許可された。また、この頃にはモンケの次弟クビライが南宋遠征の主将として起用されており、高智耀はクビライとも交流を持つようになった。1253年には当時コデンの息子モンゲトゥの庇護下にあったチベット仏教僧パスパとクビライの仲立ちを行い、両者の会見を実現した。この際、高智耀も儒学の有用性をクビライに説いたため、クビライも高智耀を召し抱えようとしたという。
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