カラ・フレグ没後のチャガタイ・ウルス当主の変遷
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カラ・フレグが死去した後、モンケから命じられたイェス・モンケの処刑は妃であったオルクナが執行し、チャガタイ家の統治も彼女が代行した。オルクナとの実子であったムバーラク・シャーはカレ・フレグが亡くなった時はまだ幼少だったようで、モンケの治世中はオルクナが当主を代行してチャガタイ家を取り仕切った。1259年にモンケが死去し、クビライとアリクブケが後継をめぐって争うことになった。(モンゴル帝国帝位継承戦争)この最中、クビライの意向によってブリの長男アビシュカをチャガタイ家の当主となるよう派遣され、寡婦となっていたオルクナ・ハトゥンに娶らせようとした。しかし、その道中でアリクブケの軍が彼を捕縛してアリクブケのもとへ連行し、アリクブケに組みしていたモンケの長男アスタイによって処刑された。今度は、アリクブケの命令により、アビシュカに替わってチャガタイの六男バイダルの息子であったアルグがチャガタイ家の家督を受継ぐよう命じられた。 このように、モンケの他界後、チャガタイ家の当主が空位のままであったことからモンゴル帝国の皇帝位の継承問題に影響される形で、その家督を巡ってクビライ・アリクブケ両陣営で争奪する様相を見せ、また当主位の継承がカラ・フレグの寡婦であったオルクナとの婚姻も併せて交替する事態となった。ムバーラク・シャーがチャガタイ家の家督を継いだのはクビライがアリクブケを破り、アルグも没した1266年であった。しかし、このムバーラク・シャーの家督もカラ・フレグの甥であったバラクに実力で奪われる事になる。
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