モンケによる江華島朝廷への出陸要求
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 08:16 UTC 版)
「モンゴルの高麗侵攻」の記事における「モンケによる江華島朝廷への出陸要求」の解説
1251年10月、モンケはモンゴル帝国第4代皇帝に即位すると、自らの即位を通告する使者として将困、洪高伊ら40人を送り、詔を発して国王高宗に「出陸」(江華島からの退去と半島本土への帰還)および「親朝」(自らの宮廷への出頭)を求めた。これを受けた高宗の宮廷は朝議で紛糾し、太子を代わりに遣わして親朝するか、あるいは高宗は老病のため親朝できないことを伝え、これを詰問された場合は太子を代わりに遣わして親朝させれば良いのではないか、という意見が出た。 翌1252年正月にモンゴル側に李峴を使者として送り出したが、7月にはモンゴル側から使者として多可・阿土ら37人が来て国王の出陸について審問してきた。一旦は使者をモンゴル側に送って近く出陸すると答えた。モンゴル側はこれを言質として再度使者をよこすと国王高宗の出陸を要求した。使者たちはモンケの命令で高麗からの使者李峴がモンゴル宮廷に留め置かれたことを告げ、「国王が陸でお前たち使者を迎えるならば、たとえ人々がまだ出て来なくともそれで良しとする。もしそうでなければ直ちに帰還せよ。お前たちが来るのを待って(高麗に)兵を発して討伐させる」というモンケから使者たちに課された指令を伝えた。モンゴル側は高麗宮廷が未だ江華島に立て籠って違約を続けている事に対して、旧都の開京への帰還を求めた。
※この「モンケによる江華島朝廷への出陸要求」の解説は、「モンゴルの高麗侵攻」の解説の一部です。
「モンケによる江華島朝廷への出陸要求」を含む「モンゴルの高麗侵攻」の記事については、「モンゴルの高麗侵攻」の概要を参照ください。
- モンケによる江華島朝廷への出陸要求のページへのリンク