モンケの即位に至るまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 17:20 UTC 版)
「モンケセル」の記事における「モンケの即位に至るまで」の解説
1236年、ジョチ家のバトゥを総司令とするヨーロッパ遠征が始まると、モンケセルはモンケ率いる部隊に従軍してルーシ・アスト・キプチャク諸国の征服に貢献した。モンケセルは戦闘においては常に先陣に立って数数の武功を挙げる一方、戦利品の宝玉は惜しみなく諸将に分け与えたため、モンケはますますモンケセルを重用するようになった。遠征からの帰国後、モンケはモンケセルに自らのオルドの統治を委ね、モンケセルは紀律でもってこれを厳しく治めた。太后や妃であっても、過失を犯した時にはモンケセルは全てを把握・処理したため、モンケのオルドに仕える者は皆モンケセルを恐れ憚ったという。このようなモンケセルの地位を、『元史』は「位は三公の上にあり、漢語で言う所の大将軍に当たる(其位在三公之上、猶漢之大将軍也)」、『集史』は「[モンケの]御前に控える御家人筆頭(sarwar-i umarāʿ)」、『五族譜』は「断事官の長官で、非常に強力で地位が高く、内務長官であった」とそれぞれ表現している。 第2代皇帝オゴデイの死後、モンゴル帝国ではオゴデイの庶長子のグユクを推すオゴデイ家を中心とする勢力と、モンケを推すトルイ家を中心とする勢力との間で政争が起こり、モンケセルもモンケ支持者の一人として活躍した。皇后ドレゲネの政治工作で一度はグユクが即位したが、グユクは即位後数年で亡くなったため、今度はオゴデイの孫のシレムンとモンケとの間で帝位が争われることとなった。シレムンを推す勢力は「生前のオゴデイがシレムンを後継者にしようと述べていた」ことを主張したが、モンケセルは「汝らの言が真実ならば、何故先の帝位選出においてシレムンを推さずにグユクを推戴したのか?」と述べて敵陣営の論理的矛盾をついた。また、モンケが幼少期にオゴデイの下で育てられていた時にオゴデイから「天下は君のものとなるだろう」と語られたことを挙げ、オゴデイがシレムンに天下を与えようと言われたのも仁愛の心から出たその場限りのものであると主張した。モンケセルの熱弁の甲斐あって、最終的にモンケが第4代皇帝に選ばれることになった。
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