モンケの施政から晩年
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その後は皇帝としての地位と支配力を固めるべく、河北やトルキスタンなどに行政府を設置するとともに、官僚のマフムード・ヤラワチ・マスウード・ベク父子を重用して財政政策に重点を置き、財政を潤わせた。さらに次弟であるクビライを漠南漢地大総督に任じて南宋攻略を、三弟のフレグを征西方面軍の総司令官に任じてイラン方面を侵略させた。1258年にはアッバース朝を滅ぼしている。 しかし、晩年のモンケは有能な次弟クビライの存在を恐れて、これを一時的に更迭するなどの猜疑心深い一面があった。このためもあって南宋攻略は遅れ、これに苛立ったモンケは1258年、自身の実力に恃んで軍を自ら率いて四川方面から南宋攻略を目指し、帝国諸軍に先行、突出して侵攻したが、その途上、翌年7月末に重慶を攻略した後、合州の釣魚山の軍陣内で流行した悪疫にかかって1259年8月11日に死去した。死後は歴代皇帝たちと同じく起輦谷に葬られた。このモンケの死は、クビライ派による毒殺説も囁かれている。
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