毒殺説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/16 08:33 UTC 版)
ヘンリク4世の死因については、互いに無関係な史料がいくつか存在する。シロンスクの諸公の墓廟、ヤン・ドゥゴシュの年代記、そして後世になってボヘミア人が記したプルカヴィや、スティリャのオタカルの年代記などである。 最も正確で詳細な記述と思われるスティリャのオタカルの年代記によれば、ヘンリク4世はポーランド王位を熱望しており、教皇に戴冠の認可を求めていた。願いは聞き届けられ、1万2000グジヴナもの莫大な貢納金が教皇に差し出された。使節がイタリアに赴いて教皇に謁見した際、貢納金のうち400グジヴナが旅の途中で盗まれたという話が出てきたが、実際には使節が横領していたのだった。このことが教皇を怒らせ、教皇はヘンリク4世の戴冠に関する交渉を打ち切った。400グジヴナを着服した者は、腹を立てた教皇の追手からも、ヴェネツィアのドージェの法廷からも逃れることに成功したが、ヘンリク4世はこの不届き者を何とかして捕まえ、罰しようとした。 逮捕まであと一歩のところで、大公はこの横領者によって亡き者にされた。裏切り者の法律家(ヘンリク4世の宮廷侍医の一人の兄弟)がヴロツワフの宮廷に召抱えられ、ゆっくりとヘンリク4世に毒を飲ませていった。グンツェリンという別の侍医が毒の兆候に気付き、無理やり激しく嘔吐させて体内を浄化することで、死にかけの大公の命を救った。しかし下手人は判明せず、今度はヘンリク4世がパンを切るためのナイフに毒が仕込まれた。毒が塗られていたことは後で判明したが、大公の命は既に手遅れになっていた。ヘンリク4世はカトリックの信徒として、殺害者を処刑したり罰したりしない、と誓って亡くなった。 ヘンリク4世の死に関するこの長い記述は、他史料では同じ内容の一部が確認できる程度である。暗殺の疑いは、ヘンリク4世が熱心に王冠獲得に向けて動いていたことを考えれば、なおさら真実味を帯びてくる。スティリャのオタカルが書き残したこの物語の詳細な部分の多くが、『ズブラスワフ年代記(Kronika Zbrasławska)』からの孫引きだと考えられる。他の史料では、ボヘミア王ヴァーツラフ2世の代理人を務めるアレクシーという名前の宮廷付き司祭が、ヘンリク4世を裏切り、「カリシュの王」プシェミスウ2世に王冠をもたらそうとした、と記している。こちらのヴァージョンでは、横領した使節の話は同じだが、末尾に微妙な違いがある。こちらでは、横領者はローマの通りで自分の召使に殺されたとしている。全体的な話はきわめて慎重に進められているが、ヘンリク4世が毒殺されたという結論は同じである。 スティリャのオタカルの年代記には続きがあり、ヴロツワフの都市民達の中で、一方が法律家でともう一方が医者の兄弟がいたのかが記されている。一組の兄弟、ヤン(公国の助言者、法律家)とヤクプ(「賢者」としてしられ、おそらく医者)だけが条件に適合した。2人はヘンリク4世の父親ヘンリク3世の宮廷侍医の息子だった。彼ら兄弟はヘンリク4世の死後もその地位を保った。このことは、兄弟がクラクフと大公位の獲得を目論んでいたレグニツァ公ヘンリク5世の便宜を図ったことを示唆しているが、この説を補強する史料は存在しない。ただ、ヘンリク5世以外にヘンリク4世の死で得をする者はいなかったのであり、何らかの関わりがあったのだと思われる。
※この「毒殺説」の解説は、「ヘンリク4世」の解説の一部です。
「毒殺説」を含む「ヘンリク4世」の記事については、「ヘンリク4世」の概要を参照ください。
毒殺説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/06 14:43 UTC 版)
この若すぎる死には毒殺説もあり、この説に従うならば、頼利は承応4年(1655年)に父と共に船内で殺された。しかし忠頼の実子は次男の頼元しか残されておらず、しかも生まれたばかりの幼児である。このため、摂津有馬家の改易を恐れた家臣団が頼利によく似た子供を頼利であるとして身代わりに擁立したものであった(一説に領内にあった大庄屋の息子だったともされている)。しかし頼元が成長したため、家臣団が邪魔になった頼利を殺害したのだとされている。[要出典] 表 話 編 歴 久留米藩3代藩主 (1655年 - 1668年)有馬豊氏1620-1642 有馬忠頼1642-1655 有馬頼利1655-1668 有馬頼元1668-1705 有馬頼旨1705-1706 有馬則維1706-1729 有馬頼徸1729-1783 有馬頼貴1784-1812 有馬頼徳1812-1844 有馬頼永1844-1846 有馬慶頼1846-1871 廃藩置県
※この「毒殺説」の解説は、「有馬頼利」の解説の一部です。
「毒殺説」を含む「有馬頼利」の記事については、「有馬頼利」の概要を参照ください。
毒殺説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/22 16:43 UTC 版)
「アレクサンドロス3世の死」の記事における「毒殺説」の解説
毒殺説も、アレクサンドロス3世の死後長きにわたって有力であり続けている説である。容疑者としては、彼の妻たち、将軍たち、異母兄弟や酌取り係など多様な人物の名が挙がっている。毒殺説は、Liber de Morte Testamentoque Alexandri (アレクサンドロスの死と審判に関する書)によって特に脚光を浴びることになった。この文献は、紀元前317年以降に、ポリュペルコン派がアンティパトロスの一族を貶めようという政治的な動機から書いたものである。ユニアヌス・ユスティヌスは著書Historia Philippicae et Totius Mundi Origines et Terrae Situsの中でさらにアンティパトロス毒殺説を発展させ、アンティパトロスが「馬の蹄(だけ)では運べないほど」に強力な毒をアレクサンドロス3世に盛ったのだと主張している。 ポール・C・ドハーティは、著書Alexander the Great: The Death of a Godの中で、アレクサンドロス3世がプトレマイオス1世(王の異母兄弟であった可能性がある)にヒ素で毒殺されたとする説を唱えている。しかしニュージーランド国立毒物センターの毒物学者レオ・シェップ博士は、ヒ素の可能性は低いとして、代わりに「白ヘレボルス」の通称で知られるバイケイソウ(Veratrum album) で作ったワインが毒殺に用いられたと考えている。この植物は古代ギリシアでも知られており、長期的な症状が出る毒を作ることができ、アレクサンドロス・ロマンスで説明されている病状の経過とも一致しているという。この、アレクサンドロス3世が毒殺され、その毒物としてはバイケイソウが有力であるという論文は、査読付き医学誌Clinical Toxicologyに掲載された。古代ギリシアの歴史家ディオドロスは、アレクサンドロス3世が「ワインの大杯を飲んだ後に痛みに襲われた」と述べており、これもバイケイソウワイン説を後押ししている。
※この「毒殺説」の解説は、「アレクサンドロス3世の死」の解説の一部です。
「毒殺説」を含む「アレクサンドロス3世の死」の記事については、「アレクサンドロス3世の死」の概要を参照ください。
毒殺説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 10:13 UTC 版)
「ハサン・イブン・アリー」の記事における「毒殺説」の解説
ほとんどの初期の情報源は、死因は毒であると考えています、とウィルフレッド・マドルングは書いています。それによるとムアーウィヤはカリフ職を息子ヤズィード・イブン・ムアーウィヤへと相続することを望み、ハサンをその障害と考えて殺害をもくろんだ。ムアーウィヤはハサンの妻ジャーダ・ビント・アル=アシュアース・イブン・カイスに通じ、毒殺をけしかけた。ジャーダはムアーウィヤの提案通り、蜂蜜に毒を混ぜ合わせてハサンに供した、というものである。マデルングは毒を盛ったのは、別の妻スハイル・イブン・アムルの娘、あるいは従者によるとする伝承についても指摘しており(pp. 331-3)、さらにバラーズリーやワーキディーなども引用している。マデルングは歴史研究者でもシーア派伝承を多く受け入れているが、ハサンの毒殺説についても、有名な初期イスラーム史家タバリーが人々の信仰に揺らぎを与えることをおそれて隠蔽したものと考えている。 ジャーダは黄金とヤズィードとの結婚が約束されていたという。金銭と権力に誘われた彼女はダマスカスのムアーウィヤの宮廷へと急いだ。しかしムアーウィヤは約束を違えて、別の男性と結婚させてしまった、というものである。 一部のスンニ派の情報筋は、ハッサンの死は病気によるものであり、ムアーウィヤは何もしなかったと述べています。
※この「毒殺説」の解説は、「ハサン・イブン・アリー」の解説の一部です。
「毒殺説」を含む「ハサン・イブン・アリー」の記事については、「ハサン・イブン・アリー」の概要を参照ください。
毒殺説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 14:03 UTC 版)
息子の作十郎(貞泰)は、若年を理由に領地を召上げ下られ、文禄3年(1594年)1月、美濃国黒野に国替えされた。甲斐は一時の国主不在期間を経て、浅野長政、幸長親子に与えられた。 『北藤録』に拠れば、光泰は朝鮮出陣中に石田三成と対立し、三成に誘われて宮部長房の陣で供応を受けた後に発病し、遺言書をしたためて急逝しており、三成による毒殺であるという。毒殺説には信憑性を認める研究がある。しかし、少なくとも同時代では毒殺説がある程度信じられていて、作十郎の所領相続を認めなかったことも奉行の差し金ではないかと邪推された。ただし、豊臣政権下においては、若年者の家督相続の際に、経営に難ありとして減封や要衝からの転封という例は一般的な措置と言ってよいほど多数の例がある。 三成が家康打倒のために挙兵した関ヶ原の戦いにおいては、加藤貞泰は反三成勢力となる徳川方に属した。この戦いで貞泰は本領安堵、後に伊予国大洲藩初代藩主となった。
※この「毒殺説」の解説は、「加藤光泰」の解説の一部です。
「毒殺説」を含む「加藤光泰」の記事については、「加藤光泰」の概要を参照ください。
毒殺説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 20:16 UTC 版)
急死の状況から、実母である満天姫、もしくは養父大道寺直英などが、津軽家に災禍が及ぶのを防ごうとして毒殺したとする説が存在する。
※この「毒殺説」の解説は、「大道寺直秀」の解説の一部です。
「毒殺説」を含む「大道寺直秀」の記事については、「大道寺直秀」の概要を参照ください。
- 毒殺説のページへのリンク