死にまつわる謎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 09:02 UTC 版)
死因については毒殺説と自然死説の両方が存在し、当時から砒素で毒殺されたという噂があった。 1980年の光緒帝の陵墓発掘の際の遺体調査では頸椎・毛髪いずれにも中毒の痕跡を見出せず外傷も存在しなかったこと、光緒帝に関するカルテ及び薬品の処方といった史料が現在も故宮に残されており書籍も出版されていることなどから、病死の可能性が濃厚と考えられてきた。 しかしながら2003年より中国の国家清史編纂委員会、原子力科学研究院などから成るプロジェクトチームが結成され死因の調査を行った結果、2007年に頭髪に集中して通常の1000~2000倍の砒素が検出されたと報道され「これこそ一度に大量の砒素を投与された証拠だ」とし、再び砒素による毒殺の可能性がクローズアップされてきた。 その後も調査を進め光緒帝の遺髪や衣服などを調査した結果、致死量をはるかに上回る猛毒の三酸化二砒素が検出された。毒の残留状況や文献記録などから慢性中毒ではないとして委員会は2008年、光緒帝の死因は急性胃腸性砒素中毒であり毒殺されたものと結論付けた。研究の成果は、編纂中の清史に反映される予定。 犯人についてはいくつかの説があり、主なものを以下に列挙する。だが、いずれの説にも証拠はなく、また共謀している可能性も考えられるものの、真相は明らかになっていない。 西太后犯人説 『崇陵伝信録』及び『清稗類鈔』等が唱える。死去直前の西太后が毒殺を命じたという説。西太后と光緒帝の死亡時間が近いのは、自分の死期を悟った西太后が、自分よりも光緒帝を長生きさせないために毒殺したと記している。 袁世凱犯人説 溥儀が自伝の『わが半生』で唱える。かつて戊戌変法で光緒帝を裏切った袁世凱にとって、西太后が死去して光緒帝が復権することは、自身への報復を意味していた。「西太后の死期が近いという情報を知った袁世凱が、宦官を利用し、先手を打って光緒帝を暗殺した、という論理である。 李蓮英犯人説 『慈禧外伝』及び徳齢の『瀛台泣血記』等が唱える。長年西太后に仕えていた宦官の李蓮英が毒殺したという説。西太后の死去で自らの後ろ盾を失い、報復されるのを恐れて暗殺したという論理である。通訳として宮廷に仕えていた徳齢などは、西太后の威を借り横暴を究めていた李蓮英が、光緒帝の復権により報復を受けることを恐れて光緒帝を殺害したとしている。 その他毒殺説 『逸経』等にある、侍医が毒殺したという説など。
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