南宋攻略とは? わかりやすく解説

南宋攻略

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 18:43 UTC 版)

バヤン (バアリン部)」の記事における「南宋攻略」の解説

1274年前年南宋北方守り拠点として長らく抵抗続けてきた襄陽呂文煥降伏したのをきっかけに、南宋本土へ大規模な侵攻モンゴル・南宋戦争)が組織されると、バヤン南宋討伐総司令官を任ぜられ、荊湖行省任せられ河南地方一帯の政軍の全権委ねられた。バヤンは自ら中軍率い襄陽から漢水沿って南下続け漢口武漢)で長江至った。元軍はここで南宋艦隊対峙して渡河阻まれたが、3000人の騎兵上流からひそかに渡河させ、挟撃恐れて浮き足だった南宋艦隊敗走させた。こうしてバヤン率いる元軍の本隊は、ほとんど手間取ることなく長江を渡ることに成功し、さらに呂文煥説得使者送り出して、この地点南岸位置する都市鄂州降伏させた。 バヤン出撃先立ってクビライからむやみに敵を殺害することを避けできるだけ無傷降伏させていくよう指示されていたため、いずれの戦いで降伏した者を寛大に扱い抵抗諦めて降伏潔しとせずに自殺した者がいれば丁重に葬ったこのためもあって、南宋諸軍圧倒的な勢いの元軍に抵抗する意欲失い長江沿って南宋首都臨安向かって進むバヤンの軍に降伏していった。1275年、宋の宰相賈似道は、歳幣(毎年貢納)を条件に、元に占領され領土の返還要求したが、バヤン拒否した賈似道13の兵をもって出撃したが、戦意失っていた宋軍は元軍の騎兵突撃砲撃によってたちまち崩壊し南宋最後の抵抗あっけなく壊滅した丁家洲の戦い)。 同年3月南宋中心である江東江蘇省)に入った元軍は、ここでいったん留まって占領地安定努め11月になって臨安への進攻開始した。元軍は常州無錫湖州つぎつぎ降して南下続け1276年1月18日、ついに臨安バヤン前に無血開城して南宋滅んだ。こうしてバヤンは、ほとんど損害を受けることなく豊かな南宋領土元に併合することに成功しクビライ期待応えた

※この「南宋攻略」の解説は、「バヤン (バアリン部)」の解説の一部です。
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