第二次日本侵攻計画とは? わかりやすく解説

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第二次日本侵攻計画(1275年〜)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)

元寇」の記事における「第二次日本侵攻計画(1275年〜)」の解説

一方でクビライ使節派遣並行して、再び日本侵攻の準備取り掛かった1275年建治元年至元12年9月クビライは、高麗から直ち日本へ渡ることができる航路があることを知ると、元使を高麗へ派遣して調査させた。 同年10月再度日本侵攻計画のために、高麗において戦艦修造開始同年11月文永の役多くの矢を喪失していたため、高麗慶尚道全羅道の民に矢の羽や鏃の増産取り掛からせた。 クビライ南宋攻略断行している真っ只中再度日本侵攻計画し、その是非を重臣王磐尋ねた王磐は以下のように返答したという。 王磐「今まさに南宋討ち我ら全力用い一挙にこれ(南宋)をとるべきです。もし、また東夷日本)に兵力分ければ無駄に月日費やす恐れがあり、結局、功は成り難くなります南宋滅ぶのを待って、やがてこれ(日本侵攻)を考えるも未だ遅くはないでしょう1276年建治2年至元13年1月、元と南宋戦争最終段階に入ると、クビライ南宋日本との二正面作戦を行うことを避けて高麗日本侵攻用の戦艦造船と矢の増産停止させた。 同月南宋第7代皇帝恭帝元に降伏し南宋首都臨安無血開城する。これにより事実上南宋滅亡した。なお、張世傑陸秀夫一部の者は第8代皇帝端宗第9代皇帝祥興帝擁して1279年弘安2年至元16年)まで元に抵抗続けた同年南宋滅ぼしたクビライは早速、日本侵攻の是非を南宋旧臣らに尋ねた。これに対して南宋旧臣范文虎夏貴呂文煥、陳奕らは皆「伐つべし」と答えたという。しかし、クビライ重臣耶律希亮は以下のように反対した。 耶律希亮「宋と遼、金と攻戦し、まさに300年経ってます。干戈戦争)はようやく収まり、人は肩を休めるようになりました数年待って日本遠征の兵を起こす未だ遅くはないでしょうクビライ南宋旧臣らの進言退けて耶律希亮意見採用した。こうして、日本侵攻計画当分の間延期された。

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第二次日本侵攻計画(1279年〜)

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元寇」の記事における「第二次日本侵攻計画(1279年〜)」の解説

クビライ杜世忠使節団帰還を待つ一方出兵準備開始する1279年弘安2年至元16年2月クビライ揚州湖南贛州泉州四省において日本侵攻用の戦艦600艘の造船命じる。そのうち200艘の建造アラブ系イスラム教徒である色目人蒲寿庚命じた同年5月、さらにクビライ済州島から軍船建造木材3,000隻分を供出させるとともに6月には900艘の造船高麗命じた。 しかし、建造思うようには進まず200艘の建造命じられ蒲寿庚クビライに「海船200造るよう詔がありましたが、いま完成している船は50艘です。民は実に艱苦しています」と造船により民が疲弊していることを上奏した。これを受けてクビライ蒲寿庚命じた200艘の建造中止させている。 このように造船により江南地方の民が疲弊する中、クビライ日本侵攻諫言する者が相次いだ賈居貞は民の疲弊が乱を招くことを危惧してクビライ日本侵攻止めるよう諫言したが、聞き入れられなかった。徐世隆クビライに対して丁寧に日本侵攻諫めたが同様であった重臣のアンキル(昂吉児)もまた以下のようにクビライ諫言した。 昂吉児「臣(昂吉児)、軍兵士気を主と為す聞きます上下が同じものを欲すれば勝つのです。しかしこの者ら(日本侵攻軍)は連年外夷への外征使役し、しばしば出血強いており、ここで士気のことを考えなければ天下騒然とし、一たび徴発行えば上下怨むでしょう。それは同じ欲する所を考えてはいないからです。兵を止め、民を休ませてください」 しかし、アンキル(昂吉児)の諫言もまたクビライ聞き入れられることはなかった。老臣王磐賈居貞、アンキル(昂吉児)とは違った立場で以下のように諫言した。 王磐日本小夷、海道険しくして遠い。これに勝っても、即ち武功とはなりません。勝たなければ、即ち威厳損じます。臣が思うに征伐為してはなりません。 この諫言に対してクビライ激怒したが、国を憂う王磐気持ち汲み取り翌日には王磐の下に遣いをやり慰撫したという。 同年8月逃げ出した水夫より杜世忠らの処刑高麗報じられ高麗はただちにクビライ報告使者派遣した元に使節団処刑が伝わると、東征元帥であるヒンドゥ(忻都)・洪茶丘はただちに自ら兵を率いて日本出兵する事を願い出たが、朝廷における評定結果下手に動かずにしばらく様子を見ることとなった1280年弘安3年至元17年)頃、クビライ日本侵攻軍の司令部日本行省征東行省)を設置する1281年弘安4年至元18年2月クビライ侵攻先立って首都・大都に日本侵攻軍の司令官であるアラカン阿剌罕)、范文虎、ヒンドゥ(忻都)、洪茶丘諸将召集し以下のように演説したクビライそもそもの始めは、彼の国日本)の使者が来たことにより、こちらの朝廷からもまた使者遣わし往かしたのだ。しかし、彼の方では我が使者留め還さなかった。ゆえに卿らをして、此のたびの遠征行わせることとした。朕が漢人から言を聞いたところ『人の家国を取るのは、百姓土地得たいがためである』と。もし、日本百姓尽く殺せばいたずらに土地得ても、日本土地は何に用い得ようか。また、もう一つ朕が実に憂えていることがある。それは、卿らが仲良く協力しないことのみを恐れているのだ。仮にも彼の国人が卿らのもとに至って、卿らと協議することがあるならば、まさに心を合わせ考えそろえて回答一つの口から出るように答えるようにせよ」

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