第二次日本侵攻計画(1275年〜)
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「元寇」の記事における「第二次日本侵攻計画(1275年〜)」の解説
一方でクビライは使節派遣と並行して、再び日本侵攻の準備に取り掛かった。 1275年(建治元年・至元12年)9月、クビライは、高麗から直ちに日本へ渡ることができる航路があることを知ると、元使を高麗へ派遣して調査させた。 同年10月、再度の日本侵攻計画のために、高麗において戦艦の修造を開始。 同年11月、文永の役で多くの矢を喪失していたため、高麗の慶尚道・全羅道の民に矢の羽や鏃の増産に取り掛からせた。 クビライは南宋攻略を断行している真っ只中、再度の日本侵攻を計画し、その是非を重臣・王磐に尋ねた。王磐は以下のように返答したという。 王磐「今まさに南宋を討ち、我らは全力を用い、一挙にこれ(南宋)をとるべきです。もし、また東夷(日本)に兵力を分ければ、無駄に月日を費やす恐れがあり、結局、功は成り難くなります。南宋が滅ぶのを待って、やがてこれ(日本侵攻)を考えるも未だ遅くはないでしょう」 1276年(建治2年・至元13年)1月、元と南宋の戦争が最終段階に入ると、クビライは南宋と日本との二正面作戦を行うことを避けて、高麗に日本侵攻用の戦艦の造船と矢の増産を停止させた。 同月、南宋の第7代皇帝・恭帝は元に降伏し、南宋の首都・臨安を無血開城する。これにより事実上、南宋は滅亡した。なお、張世傑・陸秀夫ら一部の者は第8代皇帝・端宗や第9代皇帝・祥興帝を擁して、1279年(弘安2年・至元16年)まで元に抵抗を続けた。 同年、南宋を滅ぼしたクビライは早速、日本侵攻の是非を南宋の旧臣らに尋ねた。これに対して、南宋の旧臣・范文虎、夏貴、呂文煥、陳奕らは皆「伐つべし」と答えたという。しかし、クビライの重臣・耶律希亮は以下のように反対した。 耶律希亮「宋と遼、金と攻戦し、まさに300年経っています。干戈(戦争)はようやく収まり、人は肩を休めるようになりました。数年を待って日本遠征の兵を起こすも未だ遅くはないでしょう」 クビライは南宋の旧臣らの進言を退けて、耶律希亮の意見を採用した。こうして、日本侵攻計画は当分の間、延期された。
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第二次日本侵攻計画(1279年〜)
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「元寇」の記事における「第二次日本侵攻計画(1279年〜)」の解説
クビライは杜世忠ら使節団の帰還を待つ一方、出兵準備を開始する。 1279年(弘安2年・至元16年)2月、クビライは揚州、湖南、贛州、泉州四省において日本侵攻用の戦艦600艘の造船を命じる。そのうち、200艘の建造をアラブ系イスラム教徒である色目人・蒲寿庚に命じた。 同年5月、さらにクビライは済州島から軍船建造の木材3,000隻分を供出させるとともに、6月には900艘の造船を高麗に命じた。 しかし、建造は思うようには進まず、200艘の建造を命じられた蒲寿庚はクビライに「海船を200艘造るよう詔がありましたが、いま完成している船は50艘です。民は実に艱苦しています」と造船により民が疲弊していることを上奏した。これを受けて、クビライは蒲寿庚に命じた200艘の建造を中止させている。 このように造船により江南地方の民が疲弊する中、クビライの日本侵攻を諫言する者が相次いだ。賈居貞は民の疲弊が乱を招くことを危惧して、クビライに日本侵攻を止めるよう諫言したが、聞き入れられなかった。徐世隆もクビライに対して、丁寧に日本侵攻を諫めたが同様であった。 重臣のアンキル(昂吉児)もまた以下のようにクビライに諫言した。 昂吉児「臣(昂吉児)、軍兵は士気を主と為すと聞きます。上下が同じものを欲すれば勝つのです。しかしこの者ら(日本侵攻軍)は連年の外夷への外征に使役し、しばしば出血を強いており、ここで士気のことを考えなければ、天下は騒然とし、一たび徴発を行えば、上下は怨むでしょう。それは同じ欲する所を考えてはいないからです。兵を止め、民を休ませてください」 しかし、アンキル(昂吉児)の諫言もまたクビライに聞き入れられることはなかった。老臣の王磐も賈居貞、アンキル(昂吉児)とは違った立場で以下のように諫言した。 王磐「日本小夷、海道は険しくして遠い。これに勝っても、即ち武功とはなりません。勝たなければ、即ち威厳を損じます。臣が思うに征伐を為してはなりません。 この諫言に対してクビライは激怒したが、国を憂う王磐の気持ちを汲み取り、翌日には王磐の下に遣いをやり慰撫したという。 同年8月、逃げ出した水夫より杜世忠らの処刑が高麗に報じられ、高麗はただちにクビライへ報告の使者を派遣した。元に使節団の処刑が伝わると、東征都元帥であるヒンドゥ(忻都)・洪茶丘はただちに自ら兵を率いて日本へ出兵する事を願い出たが、朝廷における評定の結果、下手に動かずにしばらく様子を見ることとなった。 1280年(弘安3年・至元17年)頃、クビライは日本侵攻軍の司令部・日本行省(征東行省)を設置する。 1281年(弘安4年・至元18年)2月、クビライは侵攻に先立って首都・大都に日本侵攻軍の司令官であるアラカン(阿剌罕)、范文虎、ヒンドゥ(忻都)、洪茶丘ら諸将を召集し以下のように演説した。 クビライ「そもそもの始めは、彼の国(日本)の使者が来たことにより、こちらの朝廷からもまた使者を遣わし往かしたのだ。しかし、彼の方では我が使者を留めて還さなかった。ゆえに卿らをして、此のたびの遠征を行わせることとした。朕が漢人から言を聞いたところ『人の家国を取るのは、百姓と土地を得たいがためである』と。もし、日本の百姓を尽く殺せば、いたずらに土地を得ても、日本の土地は何に用い得ようか。また、もう一つ朕が実に憂えていることがある。それは、卿らが仲良く協力しないことのみを恐れているのだ。仮にもし彼の国人が卿らのもとに至って、卿らと協議することがあるならば、まさに心を合わせ考えをそろえて、回答が一つの口から出るように答えるようにせよ」
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