高麗へ
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陳理は応天府に住んだが、やがて鬱々として恨み言を言うようになった。洪武帝となっていた朱元璋は、「今は童児の小さな愚痴に過ぎないだろうが、小人がたぶらかし、朕の恩誼を忘れるようなことが起こるかもしれない。やはり遠方に置くべきである」と言い、洪武5年(1372年)に陳理と夏の皇帝であった帰義侯明昇の2人を属国の高麗に移し、元の降臣である枢密使延安答理(エンアンダリ)に護送させた。同時に、高麗の恭愍王に羅綺(薄絹と綾絹)を与えて十分に監視させたという。 また、陳普才たちも滁州に移封された。
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高麗へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 02:00 UTC 版)
降伏した明昇らは明の都の応天府に移送され処分を待つが、幼少である事を理由に許され、帰義侯の爵位と応天府に邸宅を与えられた。この時点ではまだ夏の遺臣の一部が明に抵抗していたが、それも全て討伐された洪武5年(1372年)、明昇は陳漢の皇帝であった陳理と共に高麗に移された。 高麗に着いた明昇らは恭愍王から延安・白川両県の土地と俸給、さらには松都(現在の開城)北部の興国寺を邸宅として与えられた。また明昇はこの地で高麗の総郎尹熙王の娘坡平尹氏と結婚し、4人の男子が生まれた。 また明昇は李成桂と付き合いが深く、いつも一緒に碁を打っていた。後に李成桂が明から権知朝鮮国事に封じられた時に明昇の母彭氏が手縫いの龍袍を贈ると、感激した李成桂は感謝の印として明昇を華蜀君に封じて「忠勲世禄」(忠勲による代々の禄)を与えた。また彭氏が亡くなると松都の万寿山に手厚く埋葬した。
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