高麗へとは? わかりやすく解説

高麗へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 07:07 UTC 版)

陳理」の記事における「高麗へ」の解説

陳理応天府住んだが、やがて鬱々として恨み言を言うようになった洪武帝となっていた朱元璋は、「今は童児小さな愚痴に過ぎないだろうが、小人たぶらかし、朕の恩誼忘れるようなことが起こるかもしれない。やはり遠方に置くべきである」と言い洪武5年1372年)に陳理と夏の皇帝であった帰義侯明昇2人属国高麗移し、元の降臣である枢密使延安答理(エンアンダリ)に護送させた。同時に高麗恭愍王羅綺薄絹綾絹)を与えて十分に監視させたという。 また、陳普才たちも滁州移封された。

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高麗へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 02:00 UTC 版)

明昇」の記事における「高麗へ」の解説

降伏した明昇らは明の都の応天府移送され処分を待つが、幼少である事を理由許され、帰義侯の爵位応天府邸宅与えられた。この時点ではまだ夏の遺臣一部明に抵抗していたが、それも全て討伐された洪武5年1372年)、明昇は陳漢の皇帝であった陳理と共に高麗移された。 高麗着いた明昇らは恭愍王から延安白川両県の土地俸給さらには都(現在の開城北部興国寺邸宅として与えられた。また明昇はこの地で高麗の総郎尹熙王の娘坡平尹氏と結婚し、4人の男子生まれた。 また明昇李成桂付き合い深く、いつも一緒に碁を打っていた。後に李成桂明か権知朝鮮国事封じられ時に明昇の母彭氏が手縫いの龍袍を贈ると、感激した李成桂感謝の印として明昇君に封じて「忠勲世禄」(忠勲による代々の禄)を与えた。また彭氏が亡くなると都の万寿山手厚く埋葬した

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