高麗人の後渤海認識とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 高麗人の後渤海認識の意味・解説 

高麗人の後渤海認識

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 05:56 UTC 版)

後渤海」の記事における「高麗人の後渤海認識」の解説

『三国遺事』巻三「皇龍寺九層塔条」に以下のようにある。 海東の名賢安弘東都成立記に云う新羅第二十七女王 主と為り主、道有りと雖も無く、九韓侵労す若し龍宮の南の皇龍寺九層塔を建つれば、則ち隣国の災鎮む可し。第一層日本第二層中華第三呉越第四層托羅、第五遊、第六靺鞨第七丹国第八層女狄、第九層嗖貊。 — 三国遺事、巻三、皇龍寺九層塔条 皇龍寺中国語版)の九層塔新羅善徳王十四年(645年)に建立され高麗高宗二十五年(1238年)に寺とともに兵火破壊された。安弘撰『東都成立記』には九層塔九国の名(①日本、②中華、③呉越、④托羅、⑤遊、⑥靺鞨、⑦丹国、⑧女狄、⑨嗖貊)がみえ、『三国遺事』巻一・紀異第一にもみえる(①日本、②中華、③呉越、④ 羅、⑤遊、⑥靺鞨、⑦丹国、⑧女真、⑨穢貊)。そこでは7世紀中葉新羅にとって重要な敵国であった高句麗および百済はみえず、10世紀状況記述する中国史料に初見する女真出現し九層塔第三層「呉越」は、五代建国され政権であり、その出現10世紀遡り得ない。この事実は、九国国名10世紀初の高麗人認知していた朝鮮周辺政権および民族であることを示している。第九層「嗖貊」は、『遼史太祖紀(926年)に「丁未高麗、䈸貊、鐵驪靺鞨來貢」とみえ、「䈸貊」が出現するまた、遼史百官志・北面属国官「䈸貊国王府」とみえ、地理志二「開州、鎮国軍節度。本䈸貊地、高麗慶州渤海東京龍原府。」とあり、渤海滅亡後、その支配下にあった䈸貊人が東丹国外側一度自立したことが推察される。第六層「靺鞨」は、『遼史太宗紀(938年)「八月戊子女直來貢庚子吐谷渾烏孫靺鞨來貢。」、『遼史百官志二・北面属国官「靺鞨国王府」とみえ、䈸貊と同様に、旧渤海治下靺鞨人が一度自立した可能性なくはない。しかし、『三国遺事』に「靺鞨渤海」と称するように、朝鮮では渤海を「靺鞨」と認識しており、中国史料には、渤海滅亡926年)から清泰二年(935年)までの十年間に八回の「渤海使入貢」の記事があり、顕徳元年954年)、太平興国六年(981年)、淳化二年(991年)にも渤海使記事持続的に出現し第六層「靺鞨」が第七層「丹国丹国)」の上置かれている事実考慮するなら、ここの靺鞨後渤海を指すものとなり、高麗人後渤海靺鞨認識していることを窺わせる

※この「高麗人の後渤海認識」の解説は、「後渤海」の解説の一部です。
「高麗人の後渤海認識」を含む「後渤海」の記事については、「後渤海」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「高麗人の後渤海認識」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「高麗人の後渤海認識」の関連用語

1
10% |||||

高麗人の後渤海認識のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



高麗人の後渤海認識のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの後渤海 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS