高麗人の後渤海認識
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『三国遺事』巻三「皇龍寺九層塔条」に以下のようにある。 海東の名賢安弘撰東都成立記に云う、新羅第二十七代 女王 主と為り主、道有りと雖も威無く、九韓侵労す。若し龍宮の南の皇龍寺九層塔を建つれば、則ち隣国の災鎮む可し。第一層日本、第二層中華、第三層呉越、第四層托羅、第五層鷹遊、第六層靺鞨、第七層丹国、第八層女狄、第九層嗖貊。 — 三国遺事、巻三、皇龍寺九層塔条 皇龍寺(中国語版)の九層塔は新羅善徳王十四年(645年)に建立され、高麗高宗二十五年(1238年)に寺とともに兵火に破壊された。安弘撰『東都成立記』には九層塔の九国の名(①日本、②中華、③呉越、④托羅、⑤鷹遊、⑥靺鞨、⑦丹国、⑧女狄、⑨嗖貊)がみえ、『三国遺事』巻一・紀異第一にもみえる(①日本、②中華、③呉越、④ 羅、⑤鷹遊、⑥靺鞨、⑦丹国、⑧女真、⑨穢貊)。そこでは7世紀中葉に新羅にとって重要な敵国であった高句麗および百済はみえず、10世紀の状況を記述する中国史料に初見する女真が出現し、九層塔の第三層「呉越」は、五代に建国された政権であり、その出現は10世紀を遡り得ない。この事実は、九国の国名は10世紀初の高麗人が認知していた朝鮮周辺の政権および民族であることを示している。第九層「嗖貊」は、『遼史』太祖紀(926年)に「丁未、高麗、䈸貊、鐵驪、靺鞨來貢」とみえ、「䈸貊」が出現する。また、『遼史』百官志・北面属国官「䈸貊国王府」とみえ、地理志二「開州、鎮国軍、節度。本䈸貊地、高麗為慶州、渤海為東京龍原府。」とあり、渤海滅亡後、その支配下にあった䈸貊人が東丹国の外側で一度自立したことが推察される。第六層「靺鞨」は、『遼史』太宗紀(938年)「八月戊子、女直來貢。庚子、吐谷渾、烏孫、靺鞨皆來貢。」、『遼史』百官志二・北面属国官「靺鞨国王府」とみえ、䈸貊と同様に、旧渤海治下の靺鞨人が一度自立した可能性もなくはない。しかし、『三国遺事』に「靺鞨渤海」と称するように、朝鮮では渤海を「靺鞨」と認識しており、中国史料には、渤海滅亡(926年)から清泰二年(935年)までの十年間に八回の「渤海使入貢」の記事があり、顕徳元年(954年)、太平興国六年(981年)、淳化二年(991年)にも渤海使の記事が持続的に出現し、第六層「靺鞨」が第七層「丹国(丹国)」の上に置かれている事実を考慮するなら、ここの靺鞨は後渤海を指すものとなり、高麗人が後渤海を靺鞨と認識していることを窺わせる。
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