高麗人として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 13:37 UTC 版)
1923年8月末、朝鮮共和国の組織は、ソ連政府の庇護を期待してウラジオストクへ移り、独立宣言を発して、コミンテルンの承認を待った。翌1924年、コミンテルンは否承認の回答を出し、国外退去を迫って、組織は四散した。擎天はシベリアに残ることを選び、ここで池青天と道が別れた。翌1925年、朝鮮半島の毎日申報は「金光瑞は亡命運動家たちを引き具して、共産主義者たちと決別した」と報じたが、誤報だった。 武装独立運動の夢を捨てきれなかった擎天は、沿海州各地で軍事指導を務める一方、武官学校の設立を画策し、ウラジオストク韓族軍人クラブを組織したりもした。また、朝鮮師範大学(在ウラジオストク)の日本語と軍事学の講師を務め、一時期、佐官級の待遇で極東ソ連当局に招かれ、軍事専門家として、シベリア各地で軍隊の組織整備に知識を貸していたともされている。 朝鮮人の日本陸軍士官学校卒業生は、当時、全誼会という親睦組織をもっていて、会報を残している。洪思翊を中心に、彼らは現役の日本軍将校でありながら、独立運動に身を投じた擎天と池青天の消息を気にかけ、京城に残された二人の妻子を援助していた。擎天の妻、ユ・ジョンファは、1923年の冬、多額の負債によって所有する家屋を処分し、自らも3人の子をかかえて困窮しながら、より生活に困っていた池夫人に100円を寄付したという。 1925年、擎天は妻子を、ウラジオストクに呼びよせた。全誼会会報には、この妻子の旅立ちまで記録されていて、彼らは擎天がシベリアに残ったことまでは、知っていたものとみられる。しかし、これを最後に、擎天の消息は載らなくなる。 1930年代の半ばから、スターリンの大粛清の一環で、ソビエト共産党や公的機関の要職にあった朝鮮人指導者、知識人に弾圧の手がのびた。1936年、擎天もスパイ容疑で逮捕され、3年の刑を受けた。 翌1937年、沿海州に住む高麗人(朝鮮人)20万人は、すべてが強制移住の対象となり、短期間のうちに中央アジアへ移送された。擎天の妻子もカザフスタンのカラガンダに送られ、「人民の敵」のレッテルのもと辛酸をなめていた。擎天は1939年に釈放され、家族のもとにたどり着いたが、ともに過ごせたのはほんの一月で、同年に再逮捕された。今度は8年の刑を受け、カラガンダのラーゲリに収容されたが、1941年、独ソ戦の勃発とともに移監され、1942年、アルハンゲリスクのラーゲリで心臓疾患により死亡したとされる。しかし、正確な死亡日時、場所、死亡原因は、いまなお不明である。 スターリンが死亡した後、1959年2月16日、擎天は名誉回復され、遺族も復権した。
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