高麗の賤民の関与(田中説)
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東京大学教授の田中健夫は、1370年から1390年初めに倭寇の襲撃が激化したのは新たに高麗の賤民階級が加わったからだとし、高麗を襲った倭寇の構成員を日本人を主力として若干の高麗の賤民を含むとした。また、田中はのちに、倭寇の構成を日本人と朝鮮人の連合か、または朝鮮人のみであったともし、さらに、高麗(李朝)にとって倭寇は外患であると同時に内憂でもあり、李氏朝鮮が高麗から引き続いて倭寇が外患であることを強調することで倭寇が抱える内憂の性格を隠蔽し、それを梃子として国家体制を確立したとも述べている。 田中説について村井章介は、多くの人員や馬を海上輸送させる困難さの説明も含めて説得力があるとしたが、田中が主張の根拠とした朝鮮王朝実録に記されている世宗王代の判中枢院事・李順蒙の発言について、膨大な朝鮮の史料のなかで倭寇に占める倭人の比率が記載されているのは田中が挙げた一例しか存在せず、その上、その史料は倭寇の最盛期から50年以上後のものであることを述べ、また、その史料の文脈は賦役から逃亡する辺境の民が多い、という事態の模範として提出されており、賤民階級に対する蔑視が、基本的な考え方となっているため、「倭人が一割~二割に過ぎない」という記述をそのまま受け入れることは出来ないと批判している。
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