高麗のモンゴル侵攻認識とは? わかりやすく解説

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高麗のモンゴル侵攻認識

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 00:58 UTC 版)

モンゴルの高麗侵攻」の記事における「高麗のモンゴル侵攻認識」の解説

A 君是天也、父母也、方殷憂大戚如此、而不於天與父母、而又於何處訴之耶、伏望皇帝陛下、推天地父母之慈、諒小邦靡他之意、敕令大軍、回轅返旆、永護小國、則臣更努力竭誠、歳輸土物、用表丹悃、益祝皇帝千萬歳壽、是臣之志也。伏惟陛下、小加憐焉。君主は天であり、父母であります。……伏して皇帝陛下お願い申し上げたいのは、天地父母慈しみをもって小邦二心がないことをご理解くださり軍隊引き返して末永く小国保護してくださいますならば、私どもはさらに努力して誠を尽くし毎年土産物お送りして赤誠の心をあらわし、ますます皇帝のお命が永遠に続くことを祝します、これが私どもの志でございます。 — 高麗史巻第二十三高宗十九一二三一)年冬十二月 B 國書曰:我國臣事蒙古大國、稟正朔有年矣、皇帝仁明、以天下一家、視遠如邇、日月所照、咸仰其德。今欲通好貴國而詔寡人云、日本高麗爲隣、典章政治有足嘉者、漢唐而下屢通中國、故特遣書以往、勿以風濤阻險爲辭。其旨嚴切、茲不獲已、遣某官某奉皇帝書前去。貴國通好中國無代無之。況今皇帝之欲通好貴國者、非利其貢獻欲以無外之名高天下耳、若得貴國通好、必厚待之。其遣一介之士以往觀之、何如也、貴國商酌焉。わが国蒙古大国臣事することがもう何年にもわたってます。皇帝仁徳は明らかであり、天下一家みなして遠近差をつけるともなく日月が照らす所はみんなその徳を仰いでます。 — 高麗史世家第二十六元宗八(一二六六)年八月 C 陛下降以公主、撫以聖恩小邦之民、方有聊生之望、然丘在焉、臣之爲國、不亦難哉。如丘者、只宜理會軍事、至於國家之事、皆欲擅斷、其置達魯花赤南方、亦非臣所知也。上國必欲置軍於小邦、寧以韃靼漢兒軍、無論多小而遣之、如丘之軍、惟望召還陛下皇女を降され、聖恩によって撫育てくださることによって、(わたしども小邦の民はまさに安心して生きる望みあります。……上国がどうしても軍隊小邦設置したいお望みならば、むしろ韃靼漢人若者軍隊多少問わず派遣されて頂くことを願ってます。 — 高麗史世家第二十八忠烈王一二七七)四年六月 D 弊邑本海外小邦也、自歴世以來、必行事大之禮、然後能保有國家、故頃嘗臣事大金。及金國鼎逸、然後朝貢之禮始廢矣。越丙子歳、契丹大擧兵、闌入我境、橫行肆暴。至己卯、我大國遣帥河稱、扎臘領兵來救、一掃其類。小國以蒙賜不貲、講投拜之禮、遂向天盟告、以萬世和好爲約、因請歳進貢賦所便。弊邑はもともと海外小邦であります歴史始まって以来、必ず事大の礼を行い、そうして国家保ってきましたそれゆえ近頃かつて大金臣事していましたが、金国敗亡するに及んで初め朝貢の礼を取りやめました。(しかし)丙子の年一二一六)を過ぎると、契丹大挙派兵してわが境域内に乱入して好き勝手暴行しました。己卯一二一九)になると、わが大国(元)が軍帥の河稱と扎臘を派遣して領兵が助け来てくださり奴ら一掃してくださいました。小国にとってその大恩つぐなえないほどであります。 — 高麗史世家第二十三高宗十九一二三一)年冬十一月 E 夫主國山川、依人而行者、神之道也、則所寓之國、所依之人、能不哀矜終始保護耶、本朝自昔三韓鼎峙爭疆、萬姓塗炭我龍祖應期而作、俯循人望、擧義一唱、四方響臻、自然歸順。然當草昧閒、或有不軌之徒、嘯聚蜂起、而以尺劒、掃淸三土、合爲一家。然後、聖聖相繼、代代相承、以至于今日矣。三百餘載之閒、時數使然、災變屢興、卽能戡定者、全是我諸神僉力潛扶、保安社稷之所致也。越辛卯以來、不幸爲蒙人所寇、國家禍亂不可殫言。本朝三韓の昔から、三方向かって境界争いあらゆる一族塗炭の苦しみ味わい、わが王でさえも時には味わい伏して人民望みにしたがって義兵起こそう唱えると、四方が声に応じて集まり自然に帰順しました。しかし、混乱した時にもし謀反の徒がいれば、号令によって人を集めて蜂起し、剣によって三土掃討し、合わせて一家にしてきました。 — 高麗史世家第二十四高宗四十一(一二五三)年冬十月 モンゴル皇帝差し出す公式文書「啓」(A)では、モンゴル皇帝に対して「天」や「父母」と同様の絶対的服従表明しており、朝鮮から日本への国書(B)及び忠烈王モンゴル皇帝への奏上(C)では、モンゴルを「大国」「上国」、それに対して自国を「小邦」と表現しており、モンゴル皇帝陳情した書面(D)では、高麗は「海外小邦」であり、大国に対して常に「事大の礼」を行って臣事し、「朝貢の礼」を行ってきたことを認め一方宗廟への祈告文(E)では、塗炭の苦しみを味わうような侵略に対して都度義兵」を起こして抵抗し国内謀反勢力掃討しながら統一保ってきたことが力説されている。 森平雅彦は、「高麗モンゴル送った啓では、モンゴル官人に対して尊官・貴人対す尊敬である『閣下』を用いモンゴル官人側の指示命令についても尊官・貴人のおおせを意味する『鈞旨』を用い一方自国のことは『小国』『小邦』『弊邑』と卑称している。したがって基本的に相手を上にたてた形式書かれたものとみて大過なかろう」と述べており、蒙古モンゴル)を「天」「父母」「大国」「上国」と表現しているのは、高麗それまで対中国認識そのままモンゴル当てはめ、モンゴル中国皇帝=「天」に代置するものとして認識していたことを示し自国高麗)を「弊邑」「小邦」と表現しながらも、侵略に対しては「義兵」によって防御し謀反徒に対しては「尺剣」によって掃討して統一保ってきたことが強調されるのは、三国統一したことが高麗ナショナル・アイデンティティとなっていることをうかがわせる

※この「高麗のモンゴル侵攻認識」の解説は、「モンゴルの高麗侵攻」の解説の一部です。
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