高麗のモンゴル侵攻認識
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「モンゴルの高麗侵攻」の記事における「高麗のモンゴル侵攻認識」の解説
A 君是天也、父母也、方殷憂大戚如此、而不於天與父母、而又於何處訴之耶、伏望皇帝陛下、推天地父母之慈、諒小邦靡他之意、敕令大軍、回轅返旆、永護小國、則臣更努力竭誠、歳輸土物、用表丹悃、益祝皇帝千萬歳壽、是臣之志也。伏惟陛下、小加憐焉。君主は天であり、父母であります。……伏して皇帝陛下にお願い申し上げたいのは、天地父母の慈しみをもって小邦に二心がないことをご理解くださり、軍隊を引き返して末永く小国を保護してくださいますならば、私どもはさらに努力して誠を尽くし、毎年土産物をお送りして赤誠の心をあらわし、ますます皇帝のお命が永遠に続くことを祝します、これが私どもの志でございます。 — 高麗史、巻第二十三、高宗十九(一二三一)年冬十二月 B 國書曰:我國臣事蒙古大國、稟正朔有年矣、皇帝仁明、以天下爲一家、視遠如邇、日月所照、咸仰其德。今欲通好於貴國而詔寡人云、日本與高麗爲隣、典章政治有足嘉者、漢唐而下屢通中國、故特遣書以往、勿以風濤阻險爲辭。其旨嚴切、茲不獲已、遣某官某奉皇帝書前去。貴國之通好中國、無代無之。況今皇帝之欲通好貴國者、非利其貢獻、蓋欲以無外之名高於天下耳、若得貴國之通好、必厚待之。其遣一介之士以往觀之、何如也、貴國商酌焉。わが国は蒙古大国に臣事することがもう何年にもわたっています。皇帝の仁徳は明らかであり、天下を一家とみなして遠近の差をつけることもなく、日月が照らす所はみんなその徳を仰いでいます。 — 高麗史、世家第二十六、元宗八(一二六六)年八月 C 陛下降以公主、撫以聖恩、小邦之民、方有聊生之望、然茶丘在焉、臣之爲國、不亦難哉。如茶丘者、只宜理會軍事、至於國家之事、皆欲擅斷、其置達魯花赤於南方、亦非臣所知也。上國必欲置軍於小邦、寧以韃靼漢兒軍、無論多小而遣之、如茶丘之軍、惟望召還。陛下が皇女を降され、聖恩によって撫育してくださることによって、(わたしども)小邦の民はまさに安心して生きる望みがあります。……上国がどうしても軍隊を小邦に設置したいとお望みならば、むしろ韃靼か漢人の若者の軍隊を多少を問わず派遣されて頂くことを願っています。 — 高麗史、世家第二十八、忠烈王(一二七七)四年六月 D 弊邑本海外之小邦也、自歴世以來、必行事大之禮、然後能保有其國家、故頃嘗臣事于大金。及金國鼎逸、然後朝貢之禮始廢矣。越丙子歳、契丹大擧兵、闌入我境、橫行肆暴。至己卯、我大國遣帥河稱、扎臘領兵來救、一掃其類。小國以蒙賜不貲、講投拜之禮、遂向天盟告、以萬世和好爲約、因請歳進貢賦所便。弊邑はもともと海外の小邦であります。歴史が始まって以来、必ず事大の礼を行い、そうして国家を保ってきました。それゆえ、近頃かつて大金に臣事していましたが、金国が敗亡するに及んで初めて朝貢の礼を取りやめました。(しかし)丙子の年(一二一六)を過ぎると、契丹が大挙派兵してわが境域内に乱入して好き勝手暴行しました。己卯(一二一九)になると、わが大国(元)が軍帥の河稱と扎臘を派遣して領兵が助けに来てくださり、奴らを一掃してくださいました。小国にとってその大恩はつぐなえないほどであります。 — 高麗史、世家第二十三、高宗十九(一二三一)年冬十一月 E 夫主國山川、依人而行者、神之道也、則所寓之國、所依之人、能不哀矜而終始保護耶、本朝自昔三韓、鼎峙爭疆、萬姓塗炭、我龍祖應期而作、俯循人望、擧義一唱、四方響臻、自然歸順。然當草昧閒、或有不軌之徒、嘯聚蜂起、而以尺劒、掃淸三土、合爲一家。然後、聖聖相繼、代代相承、以至于今日矣。三百餘載之閒、時數使然、災變屢興、卽能戡定者、全是我諸神僉力潛扶、保安社稷之所致也。越辛卯歳以來、不幸爲蒙人所寇、國家禍亂、不可殫言。本朝は三韓の昔から、三方に向かって境界を争い、あらゆる一族が塗炭の苦しみを味わい、わが王でさえも時には味わい、伏して人民の望みにしたがって義兵を起こそうと唱えると、四方が声に応じて集まり、自然に帰順しました。しかし、混乱した時にもし謀反の徒がいれば、号令によって人を集めて蜂起し、剣によって三土を掃討し、合わせて一家にしてきました。 — 高麗史、世家第二十四、高宗四十一(一二五三)年冬十月 モンゴル皇帝に差し出す公式文書「啓」(A)では、モンゴル皇帝に対して「天」や「父母」と同様の絶対的服従を表明しており、朝鮮から日本への国書(B)及び忠烈王のモンゴル皇帝への奏上文(C)では、モンゴルを「大国」「上国」、それに対して自国を「小邦」と表現しており、モンゴル皇帝に陳情した書面(D)では、高麗は「海外の小邦」であり、大国に対して常に「事大の礼」を行って臣事し、「朝貢の礼」を行ってきたことを認める一方、宗廟への祈告文(E)では、塗炭の苦しみを味わうような侵略に対しては都度「義兵」を起こして抵抗し、国内の謀反勢力を掃討しながら統一を保ってきたことが力説されている。 森平雅彦は、「高麗がモンゴルに送った啓では、モンゴル官人に対して尊官・貴人に対する尊敬である『閣下』を用い、モンゴル官人側の指示・命令についても尊官・貴人のおおせを意味する『鈞旨』を用いる一方、自国のことは『小国』『小邦』『弊邑』と卑称している。したがって、基本的には相手を上にたてた形式で書かれたものとみて大過なかろう」と述べており、蒙古(モンゴル)を「天」「父母」「大国」「上国」と表現しているのは、高麗のそれまでの対中国認識をそのままモンゴルに当てはめ、モンゴルを中国皇帝=「天」に代置するものとして認識していたことを示し、自国(高麗)を「弊邑」「小邦」と表現しながらも、侵略に対しては「義兵」によって防御し、謀反の徒に対しては「尺剣」によって掃討して統一を保ってきたことが強調されるのは、三国を統一したことが高麗のナショナル・アイデンティティとなっていることをうかがわせる。
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