高麗との関係とは? わかりやすく解説

高麗との関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 03:25 UTC 版)

刀伊の入寇」の記事における「高麗との関係」の解説

上述虜囚内蔵石女と多治比阿古見は、高麗軍刀伊の賊船を襲撃した時、賊によって海に放り込まれ高麗軍救助された。金海府で白布衣服支給され銀器食事給されるなど、手厚くもてなされ帰国した。しかし、こうした厚遇も、却って日本側に警戒心抱かせることとなった。『小右記』では「刀伊攻撃は、高麗所為ではないと判ったとしても、新羅は元敵国であり、国号改めたと雖もなお野心残っている疑いは残る。たとえ捕虜送って来てくれたとしても、悦び為すべきではない。勝戦勢いを、便を通ず好機偽り渡航禁止の制が崩れかも知れない」と、無書無牒による渡航戒める大宰府報告書引用している。 日本は宋との関係が良好になっていたため、外国脅威をあまり感じなくなっていたようである。日本契丹(遼)はあまり交流がなく、密航者厳しく罰せられた。

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高麗との関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 23:30 UTC 版)

「遼」の記事における「高麗との関係」の解説

993年契丹鴨緑江以南高句麗故地獲得するためにはじめて高麗進攻した。翌年高麗は使を遣わして契丹に赴き、契丹正朔契丹統治服従する)をおこなうことを告げたその後顕宗元年1010年)に至る時期に、高麗契丹に方物を献じ契丹語習い、婚を請い幣を納め冊封乞い生辰賀するなどの修好おこなった。『高麗史』は、この時代歴史記述において、契丹皇帝を「契丹主」と記している。高麗王顕宗が即位すると、契丹は康兆の弑君を理由大い問罪の師興し高麗は使を遣わして和を請うたが果さず、遼聖宗高麗親征し、この年1010年十二月郭州を攻陥した。

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