高麗との関係
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上述の虜囚内蔵石女と多治比阿古見は、高麗軍が刀伊の賊船を襲撃した時、賊によって海に放り込まれ高麗軍に救助された。金海府で白布の衣服を支給され、銀器で食事を給されるなど、手厚くもてなされて帰国した。しかし、こうした厚遇も、却って日本側に警戒心を抱かせることとなった。『小右記』では「刀伊の攻撃は、高麗の所為ではないと判ったとしても、新羅は元敵国であり、国号を改めたと雖もなお野心の残っている疑いは残る。たとえ捕虜を送って来てくれたとしても、悦びと為すべきではない。勝戦の勢いを、便を通ずる好機と偽り、渡航禁止の制が崩れるかも知れない」と、無書無牒による渡航を戒める大宰府の報告書を引用している。 日本は宋との関係が良好になっていたため、外国の脅威をあまり感じなくなっていたようである。日本と契丹(遼)はあまり交流がなく、密航者は厳しく罰せられた。
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高麗との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 23:30 UTC 版)
993年、契丹は鴨緑江以南の高句麗の故地を獲得するためにはじめて高麗に進攻した。翌年、高麗は使を遣わして契丹に赴き、契丹の正朔(契丹の統治に服従する)をおこなうことを告げた。その後、顕宗元年(1010年)に至る時期に、高麗は契丹に方物を献じ、契丹語を習い、婚を請い、幣を納め、冊封を乞い、生辰を賀するなどの修好をおこなった。『高麗史』は、この時代の歴史記述において、契丹皇帝を「契丹主」と記している。高麗王顕宗が即位すると、契丹は康兆の弑君を理由に大いに問罪の師を興し、高麗は使を遣わして和を請うたが果さず、遼聖宗は高麗に親征し、この年(1010年)十二月郭州を攻陥した。
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