高麗による反撃と江華島への朝廷移転
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「モンゴルの高麗侵攻」の記事における「高麗による反撃と江華島への朝廷移転」の解説
しかし同1232年、崔瑀はモンゴルが残したダルガチ72人を全員殺害した。さらに国王と開城の民を引き連れて、京畿道沖にある江華島に朝廷を移し、モンゴルの脅威に備えて防備を固めた。モンゴル軍は陸戦には長けているが、海戦には不向きと判断したためである。崔瑀は国内の船を総動員して兵や軍事物資を江華島へ運搬した。また平民にも城や山砦、沖合の島などへの移動命令が出されたが、実現不可能な空文に過ぎなかった。江華島には強固な砦が築かれ、対岸の半島本土側にも小規模な城壁が施され、文殊山(ムンスサン、慶尚北道)には二重壁が建設された。この結果、農村の休耕や国土の荒廃を招くことになる。
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