モンゴルの脅威
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 15:21 UTC 版)
韓侂冑を殺した史弥遠が今度は権力を握り、その後26年にわたって宰相の地位に就く。この時期に北のモンゴル高原にはモンゴル帝国が急速に勢力を拡大していた。史弥遠が死去した紹定6年(1233年)にモンゴルは金の首都開封を陥落させ、南に逃げた金の最後の皇帝哀宗を宋軍と協力して追い詰めて、1234年に金は滅びた。 詳細は「端平入洛」を参照 その後、モンゴルは一旦北に引き上げ、その後を宋軍は北上して洛陽・開封を手に入れた。しかしこれはモンゴルとの和約違反となり、激怒したモンゴル軍は1235年に南進を開始する。この戦いにおいて孟珙がモンゴル軍相手に大活躍し1239年に襄陽を南宋が奪還した。その後は、しばらくは一進一退を繰り返すことになる。 やがて、開慶元年(1259年)に釣魚城の戦い(中国語版)が行なわれ、モンケ親征軍が出陣した。
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