モンゴルへの服属と東遷とは? わかりやすく解説

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モンゴルへの服属と東遷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 08:54 UTC 版)

蒲鮮万奴」の記事における「モンゴルへの服属と東遷」の解説

1215年から1216年にかけて後遼大真自立によって遼東状勢混迷深めていた一方モンゴル軍この方面に着実に勢力広げており、1216年7月にはムカリ張致破って遼西大部分平定していた。ここに至りモンゴル圧迫避けがたいと見た蒲鮮万奴投降決意し息子のテゲを質子(トルカク)としてモンゴル差し出した。しかし、蒲鮮万奴息子差し出一方でモンゴルへの完全な服属拒み10万余りの部衆を率いて「海島」に逃れた。この「海島」を「東海」すなわち日本海方面解釈する説もあるが、大真国宰相王澮が「浮海に遯去した」という記録があることから、鴨緑江下流域州に属する椵島こそが蒲鮮万奴逃れ込んだ海島であるとする説もある。 1217年興定元年丁丑正月金朝より高麗国寧徳城に蒲鮮万奴高麗侵攻警告する使者訪れており、同年春頃には蒲鮮万奴は海島より遼東半島戻っていたようである。同年4月には金朝警告通り蒲鮮万奴の兵が高麗領の大夫営を攻撃し蒲鮮万奴と戦うために金の兵90余り鴨緑江越えて高麗最北端義州入っている。一方金朝の側でも高麗国接する婆速路が蒲鮮万奴攻撃受けていることが問題となり、完顔阿里不孫が婆速路に、察五斤が上京路に、それぞれ派遣された。 高麗方面出兵不調に終わると、蒲鮮万奴方向変えて北東方面、すなわち女真人故地となる地方への進出始めた蒲鮮万奴始めて曷懶路(現在の北朝鮮東北部から中露国境地帯)への移動表明した時、持勝なる人物反対表明したため杖刑処せられた。持勝は密かに蒲鮮万奴陣営逃れて上京会寧府行省太平蒲鮮万奴意図伝えたものの、既に蒲鮮万奴通じていた太平金朝裏切って上京宗廟打ち壊し元帥の承充を捕らえてその軍を奪った。これを受けて蒲鮮万奴軍は上京迫り蒲鮮万奴への投降拒んだ同知上京留守事の温蒂罕老児も蒲鮮万奴息子のテゲによって殺されてしまった。 蒲鮮万奴による上京攻略上首尾に運んだかに見えたが、元帥承充の娘の阿魯真は事態を知ると守備固めて蒲鮮万奴の軍を拒み、承充が書いたとされる書状届けられても詐術であるとして破り捨ててしまった。そこで蒲鮮万奴力攻め始めたが、阿魯真は男性の服をまとって息子とともに力戦し、蒲鮮万奴兵数百人殺し十人余り捕虜とした。また、太平欺かれ持勝が提控咸平治中裴満賽不・万戸韓公恕約と協力して太平殺害したこともあり、思わぬ損害を蒙った蒲鮮万奴やむなく包囲解いて本来の目的地である曷懶路に向かったまた、上京蒲鮮万奴戦った紇石烈徳が戦後「東京」移ったとの記録があり、東京遼陽府を含む遼東一帯はこの時蒲鮮万奴支配脱し金朝支配回復したようである。

※この「モンゴルへの服属と東遷」の解説は、「蒲鮮万奴」の解説の一部です。
「モンゴルへの服属と東遷」を含む「蒲鮮万奴」の記事については、「蒲鮮万奴」の概要を参照ください。

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