モンゴルへの服属と東遷
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1215年から1216年にかけて後遼・大真の自立によって遼東状勢が混迷を深めていた一方、モンゴル軍はこの方面に着実に勢力を広げており、1216年7月にはムカリが張致を破って遼西の大部分を平定していた。ここに至り、モンゴルの圧迫を避けがたいと見た蒲鮮万奴は投降を決意し、息子のテゲを質子(トルカク)としてモンゴルに差し出した。しかし、蒲鮮万奴は息子を差し出す一方でモンゴルへの完全な服属は拒み、10万余りの部衆を率いて「海島」に逃れた。この「海島」を「東海」すなわち日本海方面と解釈する説もあるが、大真国の宰相王澮が「浮海に遯去した」という記録があることから、鴨緑江下流域の鉄州に属する椵島こそが蒲鮮万奴の逃れ込んだ海島であるとする説もある。 1217年(興定元年、丁丑)正月、金朝より高麗国の寧徳城に蒲鮮万奴の高麗領侵攻を警告する使者が訪れており、同年春頃には蒲鮮万奴は海島より遼東半島に戻っていたようである。同年4月には金朝の警告通り蒲鮮万奴の兵が高麗領の大夫営を攻撃し、蒲鮮万奴と戦うために金の兵90人余りが鴨緑江を越えて高麗領最北端の義州に入っている。一方、金朝の側でも高麗国と接する婆速路が蒲鮮万奴の攻撃を受けていることが問題となり、完顔阿里不孫が婆速路に、蒲察五斤が上京路に、それぞれ派遣された。 高麗方面の出兵が不調に終わると、蒲鮮万奴は方向を変えて北東方面、すなわち女真人の故地となる地方への進出を始めた。蒲鮮万奴が始めて曷懶路(現在の北朝鮮東北部から中露国境地帯)への移動を表明した時、梁持勝なる人物が反対を表明したため杖刑に処せられた。梁持勝は密かに蒲鮮万奴の陣営を逃れて上京会寧府の行省太平に蒲鮮万奴の意図を伝えたものの、既に蒲鮮万奴と通じていた太平は金朝を裏切って上京の宗廟を打ち壊し、元帥の承充を捕らえてその軍を奪った。これを受けて蒲鮮万奴軍は上京に迫り、蒲鮮万奴への投降を拒んだ同知上京留守事の温蒂罕老児も蒲鮮万奴の息子のテゲによって殺されてしまった。 蒲鮮万奴による上京攻略は上首尾に運んだかに見えたが、元帥承充の娘の阿魯真は事態を知ると守備を固めて蒲鮮万奴の軍を拒み、承充が書いたとされる書状が届けられても詐術であるとして破り捨ててしまった。そこで蒲鮮万奴は力攻めを始めたが、阿魯真は男性の服をまとって息子の蒲帯とともに力戦し、蒲鮮万奴の兵数百人を殺し十人余りを捕虜とした。また、太平に欺かれた梁持勝が提控咸平治中裴満賽不・万戸韓公恕約と協力して太平を殺害したこともあり、思わぬ損害を蒙った蒲鮮万奴はやむなく包囲を解いて本来の目的地である曷懶路に向かった。また、上京で蒲鮮万奴と戦った紇石烈徳が戦後に「東京」に移ったとの記録があり、東京遼陽府を含む遼東一帯はこの時蒲鮮万奴の支配を脱し、金朝が支配を回復したようである。
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