モンゴルジン=トゥメト部の領主として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/19 07:14 UTC 版)
「トゥルゲン」の記事における「モンゴルジン=トゥメト部の領主として」の解説
1470年代に入ると西方出身のベグ・アルスランがオルドス地方に移住し、ボルフ・ジノン及びマンドゥールンと同盟を組んだ。ベグ・アルスランに擁立されてハーンに即位したマンドゥールンは、長らく分裂状態にあったモンゴルの再統一に着手した。その手始めとしてマンドゥールン・ハーンは「マルコルギス・ハーンの仇を討つ」と称してドーラン・タイジを攻め、これを殺害した。 この時マンドゥールン・ハーンはトゥルゲンを味方に取り込んでおり、モンゴル年代記はマンドゥールン・ハーンがトゥルゲンの息子ホサイに自分の娘に嫁がせたことを記し、明朝は卜剌罕衛がマンドゥールンと「和親」したため明朝への通交を控えたと記している。 これ以後、トゥルゲンはマンドゥールン・ハーン腹心の部下として知られるようになり、これを明朝は「満都魯部下大頭目脱羅干(マンドゥールンの部下の大頭目トゥルゲン)」と表現している。マンドゥールン・ハーンとベグ・アルスランが対立した時には、トゥルゲンがベグ・アルスランの「族弟」イスマイルと協力してベグ・アルスランを殺害した。また、『アルタン・トプチ』は「トゥルゲンがある時ベグ・アルスランに肉を煮たスープを所望したところ、ベグ・アルスランは煮立ったスープを差し出した。知らずに口をつけたトゥルゲンはスープの熱さに驚いたものの、はき出しては恥だと思って飲み干してしまい、口内の皮が破れてしまった。これを恨みに思ったトゥルゲンはいつかこの復讐を果たさんと誓い、後に自らベグ・アルスランを殺害した」という逸話を伝えている。 成化16年(1480年)前後に、トゥルゲンはイスマイルとともに亡くなったマンドゥールン・ハーンに代わってバト・モンケを擁立し、これを「ダヤン・ハーン」と称した。ダヤン・ハーンが幼い頃はイスマイルとともにダヤン・ハーンを傀儡とし、ウリヤンハイ三衛を征服するなど勢力を拡大した。 弘治元年(1488年)、ダヤン・ハーンが明朝に使者を派遣した時、トゥルゲン(知院脱羅干)はダヤン・ハーンの部下の中で第四位に位置づけられている。トゥルゲンはダヤン・ハーンの治世の半ばに亡くなり、モンゴルジン=トゥメト部首長の地位は息子のホサイが継いだ。しかしホサイはダヤン・ハーンに逆らって討伐を受け、それ以後モンゴルジン=トゥメト部はバルス・ボラト及びその息子アルタン・ハーンの家系が統治するようになった。
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