モンゴル・ケレイトとの戦いとは? わかりやすく解説

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モンゴル・ケレイトとの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/07 22:37 UTC 版)

メルキト」の記事における「モンゴル・ケレイトとの戦い」の解説

1197年テムジンオン・カン同盟軍メルキト対し遠征した。この戦いでメルキト一氏族がセレンガ川付近のモナチャという地方敗れたので、テムジンこの先勝によって得た戦利品ことごとくオン・カン手渡した。この援助によって窮境から立ち直ったオン・カン翌年1198年)、テムジン相談することなく新たにメルキト遠征する足り兵力集めることができた。オン・カンメルキトをブウラ・ケエルの地で破りトクトアの子のトクズ・ベキを殺し、その一子チラウン、弟のクドを捕え、その家族家畜奪ったが、テムジンにはこれらの戦利品を何も分配しなかった。この侵略によってトクトアセレンガ川のかなたの地方バイカル湖東側にあるバルグジン・トグムの地方逃亡したトクトアはすでに2人の弟、クトとオルチャンタイチウト氏族のもとへ派遣し自分のために兵を挙げるよう乞うていたが、ようやくタイチウト氏族の有力な首領、アンクゥ・アクチュウ,クリル,クドダル,タルグタイ・キリルトクらは大砂漠中に集合したオン・カンテムジン1200年の春、サアリ平原会見しタイチウト氏族を攻撃することに一致し、これを破った。クドダルとタルグタイは追撃受けて、ウレンウト・トラスという地で捕えられて殺された。タルグタイを殺したのはスルドス氏族のソルカン・シラの子チラウンであった。この戦争張本人であるアンクゥ・アクチュウはトクトアの両弟と一緒にバルグジン逃げ込みクリルナイマン部族のもとへ難を避けたテムジン女真領土境界に臨むチェケチェルで越冬した。この地で冬をすごしたのち、テムジン自分対し連合して攻めてきた諸部の首領たちを攻撃したが、それらの首領とはメルキト族のアラク・ウドル,タイチウト氏族のキルカン・タイシ,タタル部族のチャクルとカルバカルらで、すべて勇気野心には恐るべきものがあった。テムジンはこれらをダラン・ネムルゲス平野攻めて勝ち、その所有物略奪したモンゴル族支配権手に入れよう熱望していた首領たちは少なくなかった。この競争者はキヤト・ジュルキン氏族王公サチャジャディラト氏族首長ジャムカテムジンの弟ジュウチ・カサル、アラク・ウドルであったが、最後にその競争相手の中で最も有能で最も幸福であったテムジン自分の弟(ジュウチ・カサル)を除くすべてをついに倒した

※この「モンゴル・ケレイトとの戦い」の解説は、「メルキト」の解説の一部です。
「モンゴル・ケレイトとの戦い」を含む「メルキト」の記事については、「メルキト」の概要を参照ください。

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