モンゴル人の攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/19 20:38 UTC 版)
エドワードはアッコに到着して間もなく、イルハン朝のアバカのもとに使者を送り、モンゴル人との同盟構築を模索している。アバカはキリスト教徒(ネストリウス派)であり、マムルーク朝と対立していた。彼らからの援助を引き出すために、レギナルド・ロッセル、Wausのゴドフロワ、ジョン・オブ・パーカーらが派遣された。1271年9月4日付の返書で、アバカは十字軍との協力に同意し、ふさわしいマムルーク朝攻撃時期を尋ねてきた。 1271年10月末、Samagar率いるモンゴル軍がシリアに到来した。しかしその実体は、イルハン朝に服属するアナトリアのセルジューク人の、たった1万人ほどの騎兵軍であった。アバカ自身がトルキスタンでの紛争に忙殺され、イルハン朝の主力をレバントに送ることができなかったためである。とはいえキト・ブカの再来を思わせるモンゴル軍襲来の報がムスリム住民に与えた恐怖は大きく、難民がカイロにまで流れ込んだ。「モンゴル軍」はアレッポのトルコ人防衛軍を破って南進し、アパメアに至るまでを荒廃させた。しかし、11月12日にカイロからバイバルスの反攻軍が発った時には、モンゴル軍はすでに戦利品を満載してユーフラテス川まで撤退していた。
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