モンゴル人民党結成
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「ダムビン・チャグダルジャヴ」の記事における「モンゴル人民党結成」の解説
1919年、ニースレル・フレー(現在のウランバートル)で、ドグソミーン・ボドーを中心にホルローギーン・チョイバルサンらとともに、秘密革命組織「領事館丘グループ」(Konsulyn Denj)を結成した。同グループは革命の中核となると同時にソリーン・ダンザン、ダムディン・スフバートルらの「ズーン・フレー・グループ」(東庫倫グループ)と1920年にモンゴル人民党(現在のモンゴル人民革命党の前身)を結成した。 1920年、モンゴルの中国独立支援を要請するため、ソビエト・ロシアを訪問した。この時、モンゴルからはチャグダルジャヴの他、スフバートル、ダンスランビレギーン・ドグソム、ダンザン、ボドー、チョイバルサン、ダリザビーン・ロソルの革命家7人が訪ソした。チャグダルジャヴとダンザンはモスクワを訪れ、ウラジーミル・レーニンと会見した。このときの7人は、後にモンゴル人民革命党の「最初の7人」と呼ばれるようになった。 使節団がソ連滞在中の1920年10月に、ロマン・ウンゲルン率いる白軍がモンゴルに侵入した。1921年2月、ウンゲルンがニースレル・フレーを攻略すると、3月1日から3日までモンゴル人民党はソ蒙国境のトロイツコサフスクで会議を開催し、党議長にダンザンを選出した。この会議は後に、モンゴル人民革命党の第1回党大会とされた党綱領として「10項目の原則」が採択され、モンゴルは共産主義運動に加わることが宣言された。
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モンゴル人民党結成
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「ドグソミーン・ボドー」の記事における「モンゴル人民党結成」の解説
ロシア領事館でしばらく勤務する間に、ボドーは多くのロシア人の知己を得るとともに、ロシア革命の影響を受け、ボリシェヴィキに傾倒するようになった。1919年中国によるウルガ自治権の排斥行動はモンゴル民族主義を刺激し、同年の9月にボドーらは、秘密革命組織「領事館丘グループ」(Konsulyn Denj)を結成した。このグループの中核メンバーには、ダムビン・チャグダルジャヴ、ボドーのロシア語通訳として働いていたホルローギーン・チョイバルサンらがいた。時を同じくして、ソリーン・ダンザン率いる秘密革命組織ズーン(東)フレー・グループが結成されたが、両派は合流し、モンゴル人民党(後のモンゴル人民革命党)を結成した。人民党は中国によるモンゴル支配の打破を志向しており、ソビエト・ロシアに対して友好的であった。1920年人民党は、ボリシェヴィキとの関係確立を目的にボドー、スフバートル、チャグダルジャヴ、チョイバルサン、ダンザンなど7人の使節団をロシアに送った。
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