第9回十字軍
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第9回十字軍は、1271年から1272年にかけて聖地を目標として行われた、中世最後の大規模な十字軍。1270年の第8回十字軍の一部として扱われることもある。
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- ^ a b Prestwich, p. 75
- ^ Prestwich, p. 71
- ^ a b Tyerman, p. 813
- ^ "The Encyclopædia Britannica, Or Dictionary of Arts, Sciences, and General Literature", Volume 6, page 557
- ^ Preiss, p. 70
- ^ Prestwich, p. 77
- ^ Howard, p.
- ^ "Eleanor of Castile: The Shadow Queen", Sara Cockerill, Amberley, Dec 19, 2015.
- ^ Histoire des Croisades III, René Grousset, p. 653. Grousset quotes a contemporary source ("Eracles", p. 461) explaining that Edward contacted the Mongols "por querre secors" ("To ask for help").
- ^ Preiss, p. 98
- ^ Histoire des Croisades III, René Grousset, p. 653.
- ^ Runciman, p. 336-337
- ^ Howard, p.?
- ^ "The Later Crusades, 1189-1311", Kenneth M. Setton, Robert Lee Wolff. Page 616.
- ^ Prestwich, Michael (1988年5月20日). “Edward I”. University of California Press. 2018年11月30日閲覧。
- ^ Collins 2009, p. 265.
- ^ Preiss, p. 101
- 1 第9回十字軍とは
- 2 第9回十字軍の概要
- 3 その後
- 4 参考文献
第9回十字軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 14:42 UTC 版)
詳細は「第9回十字軍」を参照 1271年 - 1272年 第8回からの一連の流れにあるため、第8回十字軍の一部として独立した十字軍とは見なさない場合がある。マムルーク朝の第5代スルタンとなったバイバルスの下でイスラム側は攻勢を強め、1268年にはアンティオキアを陥落させてアンティオキア公国を完全に滅亡させた。このときバイバルスがアンティオキア住民の全てを殺害、または奴隷にし、都市を完全に破壊した。これがキリスト教圏を刺激し、1271年にイングランド王太子エドワード(エドワード1世)とルイ9世の弟シャルル・ダンジューがアッコンに向かったが、マムルーク朝の勢力の前に成果を収めず撤退した。以後、レバントにおける十字軍国家は縮小の一途をたどり、1289年にはトリポリ伯国が滅亡し、1291年にはエルサレム王国の首都アッコンが陥落して残余の都市も掃討され、ここに十字軍国家は全滅した(アッコの陥落)。 ヨーロッパ側がエルサレムを確保した期間は1099年から1187年、および1229年から1244年ということになる(以後、20世紀までイスラムの支配下に置かれる)。
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第9回十字軍 (1269–1274)
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「フランクとモンゴルの同盟」の記事における「第9回十字軍 (1269–1274)」の解説
1269年、英国の若きエドワード皇太子 (後の英国王エドワード1世) は彼の大叔父にあたる獅子心王リチャードの、フランス王ルイ7世らと行った第2回十字軍の話に触発されており、彼自身の十字軍 (第9回十字軍) を始めた。十字軍としてエドワードに同行した騎士と家来の数は極めて少なく、恐らく230人の騎士と、それを取巻く約1,000人の従者で、13隻の船からなる小艦隊で運搬された。エドワードはモンゴルとの同盟の価値を理解しており、1271年5月9日のアッコへの到着と同時に、彼は直ちにモンゴルの統治者アバカに使者を送り、同盟を要請した。アバカはエドワードの要請に積極的に応えた。そして、エドワードの軍に合流し、マムルークに対して攻勢に出るための10,000騎のモンゴル兵と共に将軍サマガル・ノヤンを派遣するため、彼の攻撃時期を調整するよう問合せてきた。モンゴル軍の実体は、イルハン朝に服属するアナトリアのたった1万人ほどの騎兵軍であったが、とはいえ、キト・ブカの再来を思わせるモンゴル軍襲来の報がムスリム住民に与えた心理的恐怖は大きかった。モンゴル軍はアレッポのトルコ人防衛軍を破って南進し、アパメアまで襲撃した。一方、エドワードはその兵力の少なさから、かなり効果の少ない襲撃を行うことは出来ても、新たな領地を広げるような実質的な成功を収めることは出来なかった。例えば、略奪のためにシャロン平野へ侵入した時、小さなマムルークの城砦カクン(英語版)でさえ攻略できないと分かった。しかし、かなり限定的ではあったけれども、エドワードの軍事作戦はアッコ市街とマムルーク朝の間で10年の休戦に同意するようにマムルーク朝君主バイバルスを説得するには役立ち、1272年に休戦協定が締結された。エドワードの努力は、歴史家ルーヴェン・アミタイによって、「これまでに成し遂げられることになっていた、エドワードあるいは他の西欧の君主らによる本当のモンゴルと西欧の連携に最も近いもの」と言われた。
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