第9回十字軍とは? わかりやすく解説

第9回十字軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/19 20:38 UTC 版)

第9回十字軍は、1271年から1272年にかけて聖地を目標として行われた、中世最後の大規模な十字軍。1270年の第8回十字軍の一部として扱われることもある。




  1. ^ a b Prestwich, p. 75
  2. ^ Prestwich, p. 71
  3. ^ a b Tyerman, p. 813
  4. ^ "The Encyclopædia Britannica, Or Dictionary of Arts, Sciences, and General Literature", Volume 6, page 557
  5. ^ Preiss, p. 70
  6. ^ Prestwich, p. 77
  7. ^ Howard, p.
  8. ^ "Eleanor of Castile: The Shadow Queen", Sara Cockerill, Amberley, Dec 19, 2015.
  9. ^ Histoire des Croisades III, René Grousset, p. 653. Grousset quotes a contemporary source ("Eracles", p. 461) explaining that Edward contacted the Mongols "por querre secors" ("To ask for help").
  10. ^ Preiss, p. 98
  11. ^ Histoire des Croisades III, René Grousset, p. 653.
  12. ^ Runciman, p. 336-337
  13. ^ Howard, p.?
  14. ^ "The Later Crusades, 1189-1311", Kenneth M. Setton, Robert Lee Wolff. Page 616.
  15. ^ Prestwich, Michael (1988年5月20日). “Edward I”. University of California Press. 2018年11月30日閲覧。
  16. ^ Collins 2009, p. 265.
  17. ^ Preiss, p. 101


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第9回十字軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 14:42 UTC 版)

十字軍」の記事における「第9回十字軍」の解説

詳細は「第9回十字軍」を参照 1271年 - 1272年 第8回からの一連の流れにあるため、第8回十字軍一部として独立した十字軍とは見なさない場合がある。マムルーク朝の第5代スルタンとなったバイバルスの下でイスラム側は攻勢強め1268年にはアンティオキア陥落させてアンティオキア公国を完全に滅亡させた。このときバイバルスアンティオキア住民全て殺害、または奴隷にし、都市を完全に破壊した。これがキリスト教圏刺激し1271年イングランド王太子エドワードエドワード1世)とルイ9世の弟シャルル・ダンジューアッコン向かったが、マムルーク朝勢力前に成果収め撤退した以後レバントにおける十字軍国家縮小一途をたどり、1289年にはトリポリ伯国滅亡し1291年にはエルサレム王国首都アッコン陥落し残余都市掃討され、ここに十字軍国家全滅したアッコの陥落)。 ヨーロッパ側がエルサレム確保した期間は1099年から1187年、および1229年から1244年ということになる(以後20世紀までイスラム支配下置かれる)。

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第9回十字軍 (1269–1274)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 07:07 UTC 版)

フランクとモンゴルの同盟」の記事における「第9回十字軍 (1269–1274)」の解説

1269年英国若きエドワード皇太子 (後の英国王エドワード1世) は彼の大叔父にあたる獅子心王リチャードの、フランス王ルイ7世らと行った第2回十字軍の話に触発されており、彼自身十字軍 (第9回十字軍) を始めた十字軍としてエドワード同行した騎士家来の数は極めて少なく、恐らく230人の騎士と、それを取巻く約1,000人の従者で、13隻の船からなる小艦隊運搬された。エドワードモンゴルとの同盟価値理解しており、1271年5月9日アッコへの到着同時に、彼は直ちモンゴル統治者アバカ使者送り同盟要請したアバカエドワード要請積極的に応えた。そして、エドワードの軍に合流しマムルークに対して攻勢に出るための10,000騎のモンゴルと共に将軍サマガル・ノヤンを派遣するため、彼の攻撃時期調整するよう問合せてきた。モンゴル軍実体は、イルハン朝服属するアナトリアのたった1万人ほどの騎兵であったが、とはいえキト・ブカ再来思わせるモンゴル軍襲来の報がムスリム住民与えた心理的恐怖大きかったモンゴル軍アレッポトルコ人防衛軍破って南進し、アパメアまで襲撃した一方エドワードはその兵力少なさから、かなり効果少な襲撃を行うことは出来ても、新たな領地広げるような実質的な成功を収めることは出来なかった。例えば、略奪のためにシャロン平野侵入した時、小さなマムルーク城砦カクン英語版)でさえ攻略できない分かった。しかし、かなり限定的ではあったけれども、エドワード軍事作戦アッコ市街マムルーク朝の間で10年休戦同意するようにマムルーク朝君主バイバルス説得するには役立ち1272年休戦協定締結された。エドワード努力は、歴史家ルーヴェン・アミタイによって、「これまで成し遂げられることになっていた、エドワードあるいは他の西欧君主らによる本当モンゴル西欧連携最も近いもの」と言われた。

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