第5回十字軍
第5回十字軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 14:42 UTC 版)
詳細は「第5回十字軍」を参照 1218年 - 1221年 教皇ホノリウス3世の呼びかけに応じたハンガリー王アンドラーシュ2世、オーストリア公レオポルト6世らがエルサレム王国の国王ジャン・ド・ブリエンヌらとアッコンで合流し、アンドラーシュ2世は帰国したものの、レオポルトやジャンらはイスラムの本拠であるエジプトの攻略を目指した。1218年にエジプトの海港ダミエッタを包囲し、1219年に攻略。ここでアイユーブ朝側は旧エルサレム王国領の返還を申し出たのだが、あくまでも戦闘を続けエジプトの首都カイロを落とそうとする枢機卿ペラギウスとレオポルトやジャンが対立し、レオポルトやジャンは帰国。1221年には神聖ローマ皇帝のフリードリヒ2世からの援軍を受け攻勢に出たが、エジプト軍を打ち破ることができず大敗し、ペラギウスら残る全軍が捕虜となって十字軍は失敗に終わった。
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第5回十字軍
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「アンドラーシュ2世 (ハンガリー王)」の記事における「第5回十字軍」の解説
ガリツィアへの干渉と並行して、アンドラーシュはハンガリー南部の国境地帯を巡るブルガリア帝国との領土問題の解決に着手した。1214年にハンガリー軍はブルガリア領のベオグラードとブラニチェヴォを占領する。同年にローマ教皇の仲介でアンドラーシュはブルガリアと和睦し、後年にヴィディンでブルガリア皇帝ボリルに対する反乱が起きた時には反乱の鎮圧を支援した。 1215年2月、アンドラーシュはラテン帝国皇帝アンリ・ド・エノー(英語版)の姪ヨランドと結婚した。翌1216年にアンリが没した時、アンドラーシュはラテン帝国の帝位に就こうと試み、教皇の歓心を得るために十字軍への参加を決意した。 ハンガリーの兵士をパレスチナに送るため、ヴェネツィア共和国と協定を交わし、ハンガリーが領有するザラ(ザダル)の支配権の譲渡と引き換えに港湾の利用権を得る。1217年8月23日、アンドラーシュが率いるハンガリー軍はスプリトで中東行きの船に乗り込み、10月9日に一行はキプロス島に上陸し、さらにアッコンに向かって出航した。11月10日、ヨルダン川沿岸のベツサイダでハンガリー軍はエジプトのアイユーブ朝のスルターン・アル=アーディルの軍に勝利を収め、敗れたアイユーブ軍は城砦と町に退却した。しかし、投石器と弩がアンドラーシュの元に期日通りに届かず、ハンガリー軍はアイユーブ軍が立て籠もるレバノンとタボル山を攻めあぐねた。 1218年1月にアンドラーシュはハンガリーに帰国する。教皇ホノリウス3世はアンドラーシュの働きに満足せず、アンドラーシュのラテン帝位の獲得は失敗に終わる。結局、教皇はヨランドの父であるピエール2世・ド・クルトネーをラテン皇帝に擁立した。 帰国途上でアルメニア王レヴォン2世(英語版)、ニカイア皇帝テオドロス1世、ブルガリア皇帝イヴァン・アセン2世と交渉し、婚姻を取り決めた。ニカイア滞在中、アンドラーシュはニカイアの宮廷に移っていた従兄弟に命を狙われるが、暗殺は未然に防がれた。
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