第5回公判以降
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N弁護士を解任するとこれまでの真摯な姿勢を豹変させる。第5回公判の意見陳述では「これまでに認めた事実は前の弁護人が勝手にやったことだから全て白紙に戻したい」とN弁護士批判を展開、従来の姿勢を翻し無罪を主張し始めたのを皮切りとして、次第に「サリンの危険性を認識していなかった」・「自分は従属的な立場であって、ボツリヌス菌や炭疽菌を提案したのは中川、サリン製造の中心人物は土谷と中川」・「アーナンダ、ウパーリ、マハーカッサパなどに比べてジーヴァカなんて大したホーリーネームではなく教祖に信頼されていたわけではない」等、自己の役割を矮小化する証言を重ねるようになり、加えて「まさか(サリンが)東京の地下鉄に撒かれるとは思っていなかった」と強調し始めた。「遠藤はサリン製造に積極的だった」とする他の共犯者の証言に対しては、「私への不快感、悪意を感じる」と否定し、他の共犯者たちが自分にとって不利な証言をすると「嘘だ」「作り話だ」などと言い立てて、自己弁護に終始することでかつての同僚たちとの間に軋轢を生み、法廷でも孤独を深めていった。 さらには、取り調べでの警察官らの言動から自分は死刑になるのではと慄いたが、捜査官の言いなりになれば死刑は避けられると考え、そのつもりで取り調べに応じたと言い張り、捜査官に従って上申書を書き上げた自分にも林郁夫(地下鉄サリン事件の実行犯の一人)同様自首が成立すると主張。また麻原の隠し部屋を自供したにも関わらず「(麻原が逮捕されて)非常に悲しかった」と証言した。土谷からは「嘘吐き」「村井と遠藤がいたから教団が崩壊した」と批判されている。 一方で、自身が関わった地下鉄サリン事件 、松本サリン事件の被害者の各遺族のほか、駐車場経営者VX襲撃事件 の被害者に対し謝罪の手紙を出し、共犯者らの法廷に証人として出廷した際に受け取った日当の積立金から50万円をサリン事件等共助基金事務局に贖罪寄付したりなど反省の姿勢は崩さなかった。 1999年3月1日に行われた土谷正実の第61回公判、同年5月18日の第64回公判等、土谷の公判で遠藤が証人として出廷した際は、土谷はかつての上司である遠藤に対し積年の怨みを晴らすが如く、証人尋問として「遠藤弾劾」を掲げ遠藤への逆襲を図った。それは遠藤の化学知識の狭隘さを暴くようなものから教団内での振る舞いに対する糾弾に至るまで――「あなたは出家生活で偽りの述べない生活をしていたのでしょうか」と問いただし、これらに対し遠藤は徹底して「証言を拒絶します」と繰り返した。教団時代から口も聞かないほど険悪な二人であったが、法廷においても事あるごとに衝突し、罪のなすりつけ、名指しでの非難、煽り合い等を経て両者の軋轢は怨念に近い形まで熾烈を極めていった。 2002年1月16日の第100回公判において、弁護側より現在の帰依心の有無を問われると、教団で貴重な経験が得られた以上自分は麻原の弟子だと言えると前置きしつつ、「ただし帰依している状況では今ありません」として、麻原への帰依を否定した。
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