サリン事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 17:20 UTC 版)
1995年3月の地下鉄サリン事件ではサリン散布実行犯となった。サリンについてはサリンプラントの電気工事をしたり説法で何度も聞かされたこともあるので有毒性は知っており、嫌だと思ったが「断ったら制裁がある。恋人との仲がばれて私は殺され、家族にも累が及ぶ」と思い承諾した。この林の公判中における証言は、他の実行犯らが「救済のためには殺人も許される」とする教団教義や麻原の絶対性を主張する中で、異色なものとなった。村井秀夫は一応「嫌なら断ってもいい」と言ったが、「断ることは当時の自分たちには無理であることを村井さんは分かっているのに、そう言うのは残酷だと思った」と証言している。 教団が犯行のために用意したサリンが入った11袋のうち3袋を引き受け、散布した車両では最も多い9人の死者を出した。これについては林が傘で袋を4回以上突き刺してサリンを流出させていたことに加えて、小伝馬町駅構内でサリンに身体を侵された乗客が異臭を放つ物体(犯行に使われた袋)を車外へ蹴り出したことで、さらにサリンが拡散されたからとも考えられる(警察無線記録にも残されている)。 林は自ら志願して他の実行犯よりも多い3袋を受け持ち(残りの実行犯4人は2袋ずつ)、実行したと報道され、オウムへの忠誠心が厚くダーティーワークを厭わずに実行する「殺人マシーン」との認識が一般に広まった。だが、実際は事件の前日中川智正・遠藤誠一がサリンのパックを11個用意して端数が生じたが、林が犯行当時、指示を断れない状況下にあるのを知っていた村井が5人の中で最初に林に1つ多く持ってくれるかと頼み、引き受けたものだった。井上嘉浩は「実行メンバーの中でもっとも人間的で優しい人なのでいやがることを引き受けた」と語り、他の実行犯も「みんながいやがる仕事を引き受けるのが彼だった」と口を揃えた。更に林が持参したサリンのパックが1つ、配布時から破損し、二重の袋内に漏れていたという。 1994年6月の松本サリン事件にもサリン噴霧車の製造という形で関与している。
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