第5回全世界選手権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 14:41 UTC 版)
百人組手を完遂したものの、全身打撲の対処のために近くの大学病院で点滴を頼んだが、断られた。当日、何もケアができず翌日、血液検査で別の病院に行ったら、腎機能に異常がある事がわかり、緊急入院。猛烈な吐き気にも襲われ、再度血液検査を行った結果、急性腎不全と診断され、人工透析の可能性も示唆された。一度、人工透析を行うと一生行う事になるので増田はそれだけではどうしても避けたかった。2日間点滴を続けた結果、腎臓の数値に回復の兆しが見え、人工透析をせず、治療を続ける事となった。1か月間入院する事になると言われたが、半年後に第5回オープントーナメント全世界空手道選手権大会も控えており、寝たきり状態が1か月続くと身体機能が平均30%落ちることから、無理して増田は退院した。 退院後1か月は自宅療養であった。立ちくらみをし、歩く事もできず、体重は10キログラムも落ちていた。焦りの気持ちもあったが、何とか身体を戻す事だけを考え、日々過ごしていた。百人組手後、2か月間は練習をできなかった。そのうち1か月は寝たきり状態である。途中、日本代表の合宿にも本意ではないが、参加した。体調が回復していなかったが、普段マイペースの増田にも年齢と共に責任感が出てきていた事や「お前が全日本チームの主将なんだぞ」と言われた事により、無理をして参加した。選手権大会直前までには体調は回復していたが、血液検査ではヘモグロビン量が普段より2割減少しているといわれ、それが少ないという事はスタミナに影響する事であった。対戦相手とのシミュレーションをイメージトレーニングして、稽古不足のカバーにすることで、全世界選手権へ臨んだ。 1991年(平成3年)11月2日の初日、朝食を戻しそうになり飲み込んで試合に臨んだが、今までとは違い1回戦から強豪と当たらなかったので、無事勝ちあがれた。2日目の3回戦にイランのダグーラミ・モーセンと戦っている最中にモーセンが頭を下げて前へ詰めて来るのでバッティングを受け、目の上が切れてしまったが、医者にテーピングを施してもらった後、試合再開。モーセンはあいも変わらず増田に突っ込んでいったが、増田は相手の攻撃を捌き、突き・蹴りを返していた。バッティングの減点と試合内容から判定は増田の勝ちとなった。 3日目は4回戦に第3回オープントーナメント全世界空手道選手権大会で三瓶啓二の肋骨を骨折させた正拳突きを持つオーストラリアのマイケル・ヤングと対戦。ヤングは突き、右の掛け蹴りで攻めてきたが増田はそれらを捌き、右中段回し蹴りから突き、左上段回し蹴りを顔面に入れ、逆襲。増田が間合いを取り直して右中段回し蹴りを出し、一本勝ちした。5回戦ではニュージーランドチャンピオンのステファン・タキワと対決。タキワは突きと下段回し蹴りで突進してきたが、増田は左上段回し蹴りから、突きから左中段回し蹴りを多用し、技ありを奪った。その後も左中段回し蹴りから突きにつないで技ありで、合わせ一本勝ちをした。ベスト8に進出し、準々決勝では石井豊を5対0の判定で降し、ベスト4に進出。準決勝ではカナダのジャン・リビエールと戦う。延長2回までもつれ込んだが、増田はフットワークを使い、間合いを一定にせず、ヒット・アンド・アウェイでリビエールを攻めた。増田は右中段回し蹴りで腹部を攻め、左上段回し蹴りや右上段後ろ回し蹴りを顔面に入れたり、フェイントから正拳突きをみぞおちに決め、リビエールの動きが止まるなど、終始自分のペースで試合を進めた結果、判定は1対0ながら、体重差40キログラムで増田が勝ち、決勝に進出した。 決勝の相手は前年と同じ緑健児との再戦となった。増田の下突きラッシュに緑が素早いフットワークを駆使して蹴り、下突きを返した本戦。互いの上段回し蹴りが激しく交錯した延長1回。2回目に入って上段、下段の回し蹴りで攻める増田に緑は右中段回し蹴り、下突きを放つ。激しい死闘2分間の終了を告げる太鼓が鳴り、体重判定15キログラム差で緑の勝利となり、増田は惜敗して準優勝で第5回全世界選手権を終えた。
※この「第5回全世界選手権」の解説は、「増田章」の解説の一部です。
「第5回全世界選手権」を含む「増田章」の記事については、「増田章」の概要を参照ください。
- 第5回全世界選手権のページへのリンク