百人組手
百人組手
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 14:41 UTC 版)
優勝後、チャンピオンとしての責任、立場を感じていた。そんな時、浜井識安が再び百人組手をやってみないかと言ってきた。一度はやる意義が見い出せなくて断ったが、原点に還ろうと考えていた時に百人組手の修行が最適ではないかと考え直し、増田は行う事に決めた。約3か月の準備期間を経て、1991年(平成3年)5月19日15時30分から始まった。総本部で行う百人組手で支部からの挑戦者は増田が初めてであった。公明正大を期するために対戦相手も同門の城西支部の門下生は全員除外された。開始前に大山倍達は「対戦者は真剣に戦え。全日本チャンピオンに一本勝ちしたら、次の昇段の時の得点にします」と対戦者に発破をかけた。この修行を一目見ようと遠く北海道や関西からも応援の見学者が駆けつけた。1人2分、50人目終了時に20分休憩を取る事で、開始した。 増田は20人目終了時点で所要時間29分と、それまでの挑戦者たちよりも遥かに早いペースで進み、圧倒的な強さを誇示する。技も突き技・蹴り技どちらかに偏らずバランス良くバラエティに技を繰り出し、一本(合わせ一本含む)勝ちを重ねていく。大山が思わず「挑戦者はもっと気合を入れて!! ダンスを踊っているのか!」と活を入れるほど、増田の強さが光っていた。大山は「強いな、増田は。だが、これからがヤマだ」とつぶやいた。ハイペースで進んでいた百人組手が45人目のアジア選手権(1990年)王者の阿部清文と引き分けしたあたりから、ペースも下がり、引き分けが増えてきた。 50人終了した時点で道着を交換した増田は「倒れるまでやらせてくれよ(そのように励ましてほしい、の意)。オレ、今、弱気になっているから」と応援に来ていた松井に話すと「大丈夫。そこまで認識していれば問題ない。オレなんか50人の時点でもう青息吐息だった。それに比べれば、今日の君は十分余力がある。自信を持っていけ」と笑顔で激励した(詳細は#逸話の「百人組手での松井章圭の応援とアドバイス」を参照)。60人を越えると自分の思う通りに身体が動かない。62人目で大山は増田に「痛そうな顔をするな」と活を入れ、「がんばれ、増田。がんばるんだ」と激励した。66人目、押され気味の増田に松井が「なに、ちんたらやってるんだ!」。その刹那、増田は鬼の形相で前蹴りを繰り出し、相手をふっ飛ばしていた。70人に入り顔面防御はしっかりしているが、条件反射で身体を動かしているだけになる。71人目で相手の前蹴りで吹っ飛ばされ、判定負けしてから、前蹴りで間合いを有効に使って間合いを保つ。極限の状況にいるため、76人目で対戦相手の肩に噛み付いてしまう。意識はしっかりしているが疲労により、前かがみになりやすい。80人目では相手と盛んな打ち合いをし合った。82人目でも身体が触れた時に再び噛み付こうとするが、寸前に正気に戻って「すみません」と謝る。83人目に再び阿部清文と対戦し、技あり二つ奪われ、唯一の一本負けをした。幸いな事にダメージはさほどではなかったようだが、大山の心配そうな顔が印象的である。増田は技を出そうとして身体がそれについていかないもどかしさを感じているようだ。 91人目に入り、残り10人。全身の痛みに耐えながら相手に必死に打ち返す。時には打ち返せず、相手の攻撃に防御に必死になる状況もあった。95人目では後退しながらも左右の回し蹴りを必死の形相で連発する。残り3人になって大山が増田に「あと3人だ!!」と大声を発した。99人目に相手の前蹴りが金的に入り、プロテクターを付けていなかった増田は仰向けになり、断末魔のような呻き声を上げて悶絶した。介抱されて立ち上がった増田に道場内には「マスダ、マスダ」のコールが鳴り止まない。見学者の中には涙を流している者もいた。100人目は石川支部時代の先輩である水口敏夫が相手をした。18時53分、百人組手は達成。増田は「自分の弱さをつくづく感じた。限界に挑戦しようと大それた事を考えたが、それはできなかった。達成できたのは周囲が励ましてくれたお陰です。本当に皆さんに感謝しています。ただ単に、身体を動かすだけの持久力なら残っているみたいだけど、全身打撲のような状態で痛みがひどく、技が出ない・・・」と語った。
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