実施背景
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1965年(昭和40年)5月21日にスティーブ・アニール、同年10月15日に中村忠、1966年(昭和41年)9月17日に大山茂、1967年(昭和42年)8月5日にルック・ホランダー、同年11月10日にジャン・ジャービスがそれぞれ達成している。しかし、その当時の百人組手は、2日もしくは3日間かけて行われていた。その後、大山倍達が百人組手は1日で行うものと定義付けしてからは、上記5名は正式な達成者として認められていない。なお、上記5名は帰国前、もしくは海外派遣前に送別の意味を込めて行われた。 アニールの百人組手については、その場にいた加藤重夫が「私はスティーブの百人組手に立ち会ってるけど、彼は百人組手をやっていないですよ。スティーブなんて8人か10人やったら空手衣なんて破れちゃって、後は立ってるだけでした。真っ赤な顔して可哀想になりましたよ。せいぜいやったって20~30人でしょう。何で百人組手達成したことになっているのかは知りませんが・・・」と証言している。ちなみに1日で行われた百人組手の最初の挑戦者は、大山泰彦である。このときの死闘は、後年史上最激の百人組手と云われるほど、激しいものであった。 大山泰彦、ハワード・コリンズ、三浦美幸らは海外インストラクターとしての旅立つ前の儀式として実施された。三瓶啓二・中村誠・三好一男らは、映画『四角いジャングル』の撮影を兼ね、小笠原和彦は千葉県内神社特設リングで、映画『最強のカラテ キョクシン』の撮影中に実施された。増田章、八巻建志、フランシスコ・フィリォ、数見肇は、世界大会優勝候補筆頭の「通過儀礼」としてそれぞれ行われた。 アデミールは自らやりたいと申し出た珍しい例で、ほとんどが自らの意志ではなく、大山倍達や各々の師匠の命令で挑戦している。三瓶は当初50人組手の予定だったのを大山に頼み込み、2回目の挑戦となった。 なお、小笠原は第16回オープントーナメント全日本空手道選手権大会(5位入賞)から2週間後に行い、本人への通達も4日前だった。三浦も一週間前に大山倍達から指名された。松井章圭は大山から「やりなさい」と言われた時に、最大限の準備期間と夏を避けたいことから「3か月、時間をください」と頼み、実施日を調整した。
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