史上最激の百人組手
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 08:18 UTC 版)
1972年9月、泰彦は百人組手に挑んだ。対戦者は添野義二・鈴木浩平・三浦美幸・佐藤勝昭・岸信行・磯部清次・大石代悟・ハワード・コリンズ・東谷巧らの他に一般道場生が相手となった。介添役には山崎照朝。審判は山下勇が勤め、立会い人に大山倍達、梶原一騎らがいた。 大山倍達は対戦者に「手抜きは絶対に許さない。徹底的にやりなさい。もし泰彦四段を一本で倒したら、昇段を認める。心してかかりなさい」と通達した。後の百人組手では 握り棒を相手が落とす 相手を崩し、決めた時点で終了 などで技ありを認められたが、大山の意向により、完璧な一本で倒さない限り、きっちり2分で行われた。極真機関誌の写真を多く手がけ、この撮影にも参加していた土戸カメラマンは「みんなガチンコじゃないか。こんなので持つわけがない。大山館長は何を考えているのか?と思い大山館長を見たら、苦渋の表情をしていた」と述懐している。 結果は61人目で中止となり、完遂できなかった。しかし、その場にいた真樹日佐夫は「こと技の巧みさという点では、のちの達成者『三浦美幸やハワード・コリンズ』に比べて数等すぐれていた」と証言し、三浦は「ぼくの百人組手は、“達成させてやろう”という雰囲気が周囲にあったけれど、泰彦師範の場合は“絶対に阻止する”という百人組手だった。あれは本当に凄かった」と語るほど、試合さながらの激しい組手を交わし、“史上最激の百人組手”として語り継がれている。
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