第3回全世界選手権&百人組手
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「アデミール・ダ・コスタ」の記事における「第3回全世界選手権&百人組手」の解説
1984年の第3回オープントーナメント全世界空手道選手権大会ではDブロックから出場。技ありや一本勝ちを重ね、順調に勝ちあがり準決勝で中村誠と再戦。雪辱に燃える中村はフットワークで距離をとろうとするアデミールに間合いを取らせず、突き、蹴りとあらゆる技で攻めまくる。それまでのようにアデミールは自分のペースに持ち込めず、場外へ逃げるシーンが多く見られ、本戦で判定負けとなった。3位決定戦では松井章圭と対戦。お互い蹴り技を得意とする選手だけに華麗な蹴り技の攻防となった。判定で惜敗したが、22歳で世界4位の座についた。 1985年にアデミールは南米選手権を3連覇した。そして磯部清次に百人組手に挑戦したいと直訴する。日時はアデミールの希望通りに設定され、1987年4月25日にサンパウロ州都スポーツセンターで挑戦開始。このときのアデミールは27人目まで連続一本勝ち。しかも10秒台で相手を倒すという離れ業である。しかし、アデミールのペースは徐々に落ち始め、60人目ぐらいから受けに回る度合いが多くなった。70人目を終了した時点で道着を換え、10分間の休憩を取る。85人目を過ぎるともはや防戦一方。アデミールもこの辺りで何度も「やめよう」と思っていた。開始から2時間55分。遂に最後の組手を終えたアデミール。「百人の組手とはこんなに苦しいものなのか」と、終了後しみじみと語っている。
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