チャンピオンとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 00:26 UTC 版)
全日本チャンピオンになった後、再びキックボクシングの試合のオファーがきた。二度と参戦するつもりはなかったが、盟友である添野義二の地元・所沢市での開催であった。添野とはキックボクシングの旗揚げからオープントーナメント全日本空手道選手権大会まで共に頑張ってきた友人であり、これまで彼には大変勇気付けられ共に汗を流した仲であったので快諾した。対戦相手には沢村忠を19回ダウンさせてKO勝ちしたムエタイのルンピニーフェザー級8位であるサマンソー・アディソンが選ばれた。「TBSに追いつき追い越せ」を目標にワールドキックボクシングを運営していたNETとしては、サマンソーをリングに上げ、当初の計画通り、団体のエースである山崎と対戦させ、TBSに並んだという印象を世間に与えたい目論見があった。山崎がサマンソーに勝てば、多少のタイムラグがあるとはいえ、沢村より強い男という称号が山崎に冠され、以降の開催が容易になるという狙いがあった。空手道のチャンピオンである山崎とサマンソーの対戦をスポーツ新聞でも派手な見出しで煽りたてた。 主催者側や周囲の盛り上がりとは正反対に大きなプレッシャーを感じていた。「今度の試合は、今までの試合とは些か違う。極真会館の看板を背負うことになり、全日本王者だから絶対に負けられない試合だ」と、何かに憑かれたように猛烈な稽古を繰り返し、試合に備えた。当日はテレビ解説のゲストに大山倍達も来場していた。ゴングの合図とともに、サマンソーが右ローキック、フック気味のパンチ、そして前蹴りと連続攻撃で仕掛けてきた。山崎はそれらを受けてサマンソーの体勢を崩し、パンチと蹴りで上下に散らしながら攻撃してサマンソーをコーナーに追い詰め、右ストレートを打ち下ろし1RKO勝ちした。大山の目の前で勝てたことは、山崎にとって過去のどの試合よりも嬉しかった。 この頃の山崎は沢村忠より強いと評価され、ムエタイのトップランカーは「山崎と戦うのは嫌だ!」と尻込みして恐れるほどの存在だったため、プロモーターやNET関係者は山崎をキックボクシングへ戻そうと、今まで以上に積極的に説得し続けた。山崎も大学卒業を間近に控えていたことや周囲の熱意にほだされ、それまでの考えを翻して第2回オープントーナメント全日本空手道選手権大会後にキックボクシングの専念を決意していた。課題だったパンチはボクシングの特訓を勧められ、年明けからジム通いすることを決めていた。その矢先の1970年3月末、NETは『ワールドキックボクシング』の放映を中止した。東京12チャンネルもキックボクシングへ参入し、キック戦国時代と呼ばれて4局視聴率争いにしのぎを削るブームだったが、NETは選手集め・マッチメイク・運営の手法で他局より杜撰であったことや、立ち上げ初期は極真ジムとして極真会館の全面協力と大山倍達自らプロモーションに関わっていたが、その一方で全日本選手権の準備に忙殺されていたことから、徐々に協力的でなくなったということも原因と云われている。山崎と極真の龍虎と謳われた添野義二は、「みんな真剣勝負でやっていたから。一時は『作り試合をしようか』って話にもなったけど、やらなかった」と選手が真摯に取り組んでいたことを証言している。契約の問題で一時的に東京12チャンネルのリングに上がったものの、最終的にはキックボクシングから引退した。戦績は10戦8勝(8KO)2敗。負けた相手は既に倒した者との再戦で、どちらも判定であった。 デイリースポーツ東京本社の編集局長であった近藤敬はキックボクサーの山崎を「1970年代、キックボクシングが格闘技ファンを魅了し、華やかな時代にNETグループのライト級選手として、精悍な若者がさっそうと登場。本場タイの強豪を次々に倒してたちまちスターになり、わずか1年で自らこの世界に別れを告げた。その幻の名選手こそ山崎照朝だった。キックボクシングに名選手を送り込み、極真カラテの強さを示せば、実戦を売り物にするこの一門の人気も上がる。山崎氏はこの使者の役目を100%果たし、更にキックボクシングで身につけたテクニックを空手にも生かし、全日本選手権でも安定した成績を収めた」と評している。
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