聖地での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/30 03:42 UTC 版)
「ヘルマン・フォン・ザルツァ」の記事における「聖地での活動」の解説
1215年までヘルマンはパレスチナ、キプロス島に滞在し、騎士団の所領を視察した。1215年にローマで開催された第4ラテラン公会議に出席、翌1216年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の宮廷を初めて訪れる。1216年以後ヘルマンはフリードリヒに近侍し、あるいは彼の使者として各地を飛び回った。 ヘルマンは皇帝フリードリヒ2世の友人であり、また有能な参謀でもあった。ヘルマンは神聖ローマ帝国と教皇庁の間に立つ仲介者として活躍し、ホノリウス3世はヘルマンの能力を認め、騎士団に聖ヨハネ騎士団やテンプル騎士団と並ぶ地位を認めた。 1219年にヘルマンはエジプトのダミエッタを攻撃する第5回十字軍に参加し、ジャン・ド・ブリエンヌから武勇を称えられた。第5回十字軍に参加しなかったフリードリヒ2世に十字軍への従軍を促すため、ヘルマンはフリードリヒとジャン・ド・ブリエンヌの娘ヨランドの結婚に部分的に関わった。十字軍への参加を渋るフリードリヒと、参加を迫る教皇ホノリウス3世の間を取り持ち、1227年の秋にはフリードリヒは十字軍の参加を誓約した。 フリードリヒが実施した第6回十字軍にはヘルマンも付き従った。パレスチナへの航海中にフリードリヒが病に罹った時には、フリードリヒが教皇から破門を受けることを覚悟の上で、十字軍の中断を進言した。 1228年に破門を受けたフリードリヒが十字軍を再開した時にはヘルマンも従軍し、エルサレムでのフリードリヒの戴冠式に出席した。ヘルマンは十字軍から帰国した後、フリードリヒの破門の取り消しに奔走する。1230年にチャペラノの和議でフリードリヒの破門が取り消され、フリードリヒと教皇グレゴリウス9世が和解の証として設けた食事の場には、ただ一人の立会人としてヘルマンが同席していた。 後年にフリードリヒと教皇の対立が深刻化すると、フリードリヒはヘルマンをより頼みにするようになった。
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