聖地の喪失
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 01:01 UTC 版)
テンプル騎士団の経済的な発展とは裏腹に、1187年までに中東情勢は悪化の一途をたどっていた。当時の総長ジェラール・ド・リデフォール(英語版)は宿敵サラーフッディーンとの数次にわたる戦いに敗北するだけでなく、自らが捕虜となるという致命的な失態を演じた。これは投降よりは死を選ぶという騎士団の勇名に泥を塗ることになった。ジェラールは一度は解放されたが、再び捕虜となって斬首されたため、ヨーロッパでのテンプル騎士団の威信は落ちた。 1291年、レヴァントにおける最後の十字軍国家であったエルサレム王国のアッコンがマムルーク朝アシュラフ・ハリールにより陥落すると、キリスト勢力は完全に聖地周辺の足がかりを失うことになった。軍事活動がなくなっては存続できない他の騎士団が存亡をかけて新たな目標を見つけていく中で、特権と財産に守られていたテンプル騎士団には危機感がなく、スペインでのムスリム勢力との小競り合いを除けば、ほとんどすべての軍事活動を停止するようになっていた。
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