スルターン・アル=マリク・アル=アーディル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/27 03:07 UTC 版)
「アル=アーディル」の記事における「スルターン・アル=マリク・アル=アーディル」の解説
1200年、エジプトとダマスカスを押さえスルターンとして即位したアーディルであるが、未だ北方の大都市アレッポは兄の三男ザーヒルのもとにあり、エジプトに従っておらず、1201年にはザーヒルはモスルのザンギー朝君主と組んでシリアのアーディル領の攻撃を試みている。翌1202年、アーディルのハマー攻撃によってようやくザーヒルはアーディルとの和議に応じ、アイユーブ朝はサラーフッディーンの死後およそ9年ぶりに安定を見た。 アーディルはザンギー朝やアルメニア王国、ルーム・セルジューク朝との対抗のため、十字軍国家には比較的融和的であり、3度の休戦協定の締結を行い、それを順守している。また、ヴェネツィア共和国やピサ共和国との交易による経済交流など、アイユーブ朝の平和と発展に尽力した。しかし1218年第5回十字軍の侵攻によって平和は破られ、アーディルは十字軍の侵攻にともなう心労により衰弱し、まもなく死去したと言われている。74歳没。彼は生前に息子たちに領地を分け与えており、スルターン位とエジプトを長男のアル=カーミル、ダマスカスをアル=ムアッザム、ジャズィーラなどの北方地域をアル=アシュラフがそれぞれ継いだ。
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