スルターン即位後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 05:51 UTC 版)
「ユースフ2世 (ナスル朝)」の記事における「スルターン即位後」の解説
ユースフ2世は、父親の死の日である1391年1月15日(AH793年サファル10日)に王位に就き、アル・ムスタグニ・ビ・ラー(al-Mustaghni bi-llah、「神に満足する者」)というラカーブ(laqab、王位の敬称)を採用した。王としてまずユースフはムルシアにいたカスティリャのアデランタードであるアロンソ・ヤニェス・デ・ファハルド(Alonso Yáñez de Fajardo)に手紙を送り、ムハンマド5世が1390年にフアン1世と結んだ停戦の継続を確認した。二国間条約は通常、いずれかの署名者の死亡により失効することになっていたが、1390年の条約の場合は双方の後継者であるユースフとエンリケも先述の通り署名をしていたため、引き続き有効であった。ユースフは、王フアン1世が父と良好な関係を築いていたアラゴンとの和平を維持した。1391年3月、ユースフはフアンに父親の死と即位を知らせる手紙を送った。フアンは慣習的な哀悼の意を表し、手紙の送られるのが遅れたことに驚きを顕にした。 即位して一年経たないうちに、ユスフはアルメリアの地下牢に父の宰相でもあった詩人イブン・ザムラク(英語版)を投獄した。そしてユースフの治世では、先代のマウラ(英語版)であったハリド(Khalid)が大臣( al-qaim bi-dawlati-hi 、英語の”the officer of the his government”に相当)に就任した。大臣となったハリドはユースフの3人の兄弟を投獄した。ユスフは二度ととして彼らの話を聞くことはなく、兄弟たちは捕われの身となったままで亡くなった。しかしハリドがユダヤ人の王室医師であるヤヒヤ・イブン・アル・サイ(Yahya ibn al-Saigh)と陰謀を企て、自身を毒殺せんとした疑いがあるという報告を受けたユースフは、両方を処刑するよう命じた。ハリドはユースフの面前で縛られた状態で剣でずたずたにされて、そしてヤヒヤは投獄されて打ち首にされて殺された(一説にヤヒヤは毒殺されたともいう)。 かくてユースフは親政を始めることとなった。その死の数ヶ月前、彼は息子のムハンマド(後のムハンマド7世)が率いた別の陰謀に巻き込まれた。この争いは、マリーン朝のスルタン、アブー・アル・アッバース・アフマド(英語版)(在位: 1374年 - 1384年、1387年 - 1393年)の協力で平和的に解決され、ムハンマドが父の権威を認めることで収拾がついた。 1392年7月、ユースフはイブン・ザムラクをワズィールの座に呼び戻すと、8月14日にはアラゴンと5年間の平和条約に署名した。内容は以前の条約と同様であったという。この条約はアラゴンのムスリム(ムデハレス(英語版))に有利に働いたようで2週間後、フアン1世は、それまで義務付けられていたムデハレス専用のバッジを付けずに公の場に出ることを許可した。 8月29日、フアンはサラゴサのムスリムがナスル朝に代表者を派遣することを許可する手紙をしたためたが、ナスル朝が内政に介入する口実になるという自身の懸念から、この手紙が送られることはなかった。
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