スルターンの座
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/06 03:00 UTC 版)
「アルプ・アルスラーン」の記事における「スルターンの座」の解説
アルプ・アルスラーンは、父チャグリー・ベグ(Chaghrī Bek)の後を継いで、1059年にホラーサーンの総督となった。セルジューク朝の初代スルターンであるトゥグリル・ベグは彼の叔父である。トゥグリルが亡くなると、アルプ・アスラーンの兄弟であるスライマーンが継承しようとしたが、アルプ・アスラーンと、トゥグリルの従兄弟クタルミシュ(トゥグリルの父ミーカーイールの長兄アルスラーン・イスラーイールの嫡子)が共に反対した。その後、アルプ・アルスラーンはクタルミシュとも王座を争ったが、結局はアルプ・アスラーンが勝ち、1064年4月27日にスルターンの座を受け継いだ。これにより彼はアムダリヤ川からチグリス川にいたるイラン地域の支配者となった。 アルプ・アルスラーンは、ムスリム初期の時代において最も有能な政治家の1人に数えられるペルシア人ニザームルムルクを宰相(ワズィール)として重用し、派閥争いを抑えて帝国の強化にあたった。領域が秩序と安全を保てるようになったところで、彼は地域の代表による会議を招集し、彼の息子マリク・シャーを後継者とすることを宣言した。そして彼は、聖バシレイオス教会の財産を狙って、自ら騎馬隊の先頭に立ってユーフラテス川を越え、カッパドキアの州都カイサリアを略奪した。彼はそのままアルメニアとグルジアに進軍し、1064年には征服した。 後に、アルプ・アルスラーンは、王座を争ったクタルミシュの息子スライマーン・イブン=クタルミシュを北西方面のいくつかの属州の総督に任命した。その後スライマーンは、セルジューク朝から分裂してルーム・セルジューク朝を興している。スライマーンの記述によると、アルプ・アスラーンはクタルミシュと争ったものの、クタルミシュが亡くなったときには涙を流して惜しんだという。
※この「スルターンの座」の解説は、「アルプ・アルスラーン」の解説の一部です。
「スルターンの座」を含む「アルプ・アルスラーン」の記事については、「アルプ・アルスラーン」の概要を参照ください。
- スルターンの座のページへのリンク