マリク・シャーとは? わかりやすく解説

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マリク‐シャー【Malik Shāh】


マリク・シャー

名前 Malikshāh

マリク・シャー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/03 11:11 UTC 版)

マリク・シャー
ملک‌شاه
セルジューク朝スルタン
在位 1072年 - 1092年

出生 1055年8月8日
死去 1092年11月19日
配偶者 ズバイダ
  テルケン・ハトゥンペルシア語版
子女 バルキヤールク
ムハンマド・タパル
アフマド・サンジャル
マフムード1世
娘(マスウード3世の妃)
家名 セルジューク家
王朝 セルジューク朝
父親 アルプ・アルスラーン
宗教 イスラム教スンナ派
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マリク・シャーペルシア語: ملک‌شاه, ラテン文字転写: Malik Shāh; アラビア語: جلال الدولة معّز الدين أبو الفتح ملكشاه بن الپ ارسلان, ラテン文字転写: Jalāl al-Dawla Mu'izz al-Dīn Abū al-Fatḥ Malik Shāh b. Alp Arslān1055年8月8日 - 1092年11月19日)あるいはマリク・シャー1世(-いっせい)は、セルジューク朝の第3代スルタン(在位:1072年 - 1092年)。第2代スルタンのアルプ・アルスラーンの子。マリクアラビア語で、シャーペルシア語で、それぞれ「」を意味する。アッバース朝カリフから授けられた尊号は سلطان جلال الدولة معّز الدين أبو الفتح ملكشاه يمين امير المؤمنين Sulṭān Jalāl al-Dawla Mu'izz al-Dīn Abū al-Fatḥ Malik Shāh Yamīn Amīr al-Mu'minīn

経歴

即位とイスファハーン遷都

1072年に父アルプ・アルスラーンがマー・ワラー・アンナフル遠征中に急死したことにより、長男のマリク・シャーは17歳という若年で大セルジューク朝のスルタンに即位した。しかしこれは彼のアタベクで名宰相(ワズィール)と称されたニザームルムルクの画策するところが大きく、伯父で父アルプ・アルスラーンの長兄であった ケルマーン・セルジューク朝の始祖カーヴルト・ベグがスルターン位を求めて反乱を起こした。翌1073年にカーヴルドは捕縛され処刑されたが、カーヴルドの息子たちは已然としてケルマーンで強勢を保っていたため討伐は実現し難く、マリク号を剥奪するかわりにアミール位を与えてカーヴルド家によるケルマーンの支配を事実上黙認した。また、さらに1074年にはイラン東部ホラーサーン地方の主都ニーシャープールを領有していた弟のテキシュが反乱を起こすなど、治世の初頭は親族間との紛争に悩まされた。

これにともなって王都(ダール・アル=ムルク)をエスファハーンに定めた。この位置は東南部の強力なカーヴルド王家と西南部のアッバース朝に対しにらみを利かせることが狙いであるが、北方のレイマーザンダラーンなどカスピ海南岸地域、東方のホラーサーン、マー・ワラー・アンナフル、西方のルーム、シリア方面への接続にも利便性が高かったため、治世中に展開した領土拡張にも大いに地の利を得る形となった。

セルジューク朝の勢力拡大

1070年代半ばに父アルプ・アルスラーンによるマラズギルトの戦い以降、アナトリアに入植したダーニシュマンドらをはじめとするセルジューク朝系アミールたちが領土紛争を始めていたことに憂慮し、トゥグリル・ベクらの伯父アルスラーン・イスラーイールの家系に属すクタルムシュの長男スライマーンをアナトリアに派遣し、これの調停にあたらせた。これが後のルーム・セルジューク朝の基礎となった。

また、シリア方面にはシリア・セルジューク朝の始祖で弟のトゥトゥシュを、ホラーサーン方面には息子のひとりアフマド・サンジャルをそれぞれに領有させている。

統治と宗教政策

マリク・シャー没年(1092年)ころのセルジューク朝支配地域

マリク・シャーはニザームルムルクの補佐もあって、無難に統治を行なった。ニザームの補佐のもと、中央集権化による官僚制を確立し、対外的には勢力拡大に奔走し、東はアフガニスタンから西は東ローマ帝国に及ぶ一大支配圏を築き上げた。また、1074年バグダードに天文台を建設し、さらにウマル・ハイヤームに新暦を編纂させるなど、文化的にも大いに優れていた。宗教政策ではスンナ派を重用してイスマーイール派を弾圧したが失敗。彼の時代に王朝は全盛期を迎えたが、この宗教政策の失敗が王朝衰退の一因ともなった。

ヒジュラ暦485年ラマダーン月10日土曜日(1092年10月20日)、名宰相であったニザームルムルクがマリクの妃テルケン・ハトゥンペルシア語版暗殺された。マリク・シャーはその死を知って悲しんだが、同年に無理を押して出陣を強行し、バグダードに滞在中の翌シャウワール月(10月21日 - 11月9日)に、陣中で病に倒れてニザームの後を追うように37歳で急死した。ニザームルムルク殺害から一ヶ月も経たぬうちにマリク・シャーも病没したと伝えられている。治世は20年であった。

マリク・シャーは、ニザームを重用し、セルジューク朝の全盛期を築き上げた名君として高く評価されている。

関連項目

先代
アルプ・アルスラーン
大セルジューク朝君主
1072年 - 1092年
次代
マフムード1世

マリク・シャー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 18:07 UTC 版)

大セルジューク朝」の記事における「マリク・シャー」の解説

詳細は「マリク・シャー」を参照 アルプ・アルスラーン後継者マリク・シャーと二人ペルシャ人ワズィールニザームルムルクとタージルムルクの下でセルジューク国はアラブ侵攻以前嘗てイラン国境向けて様々な方面拡張し、その為に間もなく東は中国と西は東ローマ帝国国境接した。マリク・シャーは首都シャフレ・レイからエスファハーンに遷し、大セルジューク朝絶頂期迎えたのは、この時代であったイクタ軍事組織バグダードのアルニザミッヤ大学英語版)がニザームルムルクにより創立され、マリク・シャーの時代は、「大セルジューク朝」の黄金時代考えられた。アッバース朝カリフ1087年に「東西スルタン」と名付けた。しかしハサン・サッバーフ暗殺教団(ハシュシャシン)は、この時代一団となり始め、その指導の下で多く指導者暗殺し多く出典によると、この犠牲者ニザームルムルクがいた。 1076年、マリク・シャーはグルジア押し寄せ多く入植地破滅追い込んだ1079年から1080年にかけてグルジア毎年朝貢という相当な犠牲払って高価な平和を耐え忍ばせるマリク・シャーに服従するように圧力受けた

※この「マリク・シャー」の解説は、「大セルジューク朝」の解説の一部です。
「マリク・シャー」を含む「大セルジューク朝」の記事については、「大セルジューク朝」の概要を参照ください。

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