アルトゥク家の勃興とは? わかりやすく解説

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アルトゥク家の勃興

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/28 10:23 UTC 版)

アルトゥク朝」の記事における「アルトゥク家の勃興」の解説

始祖アルトゥクはオグズトゥルクマーンのデュジェル族で、アナトリア東部にあって当初東ローマ皇帝ミカエル7世への服属対抗繰り返していた。のちに大セルジューク朝第3スルタンマリク・シャー配下となり、1077年の対カルマト派作戦1079年トゥトゥシュマリク・シャーの弟で、のちにシリア・セルジューク朝初代スルタン配下でのシリア作戦1084年のイブン・ジャヒール配下でのディヤール・バクル作戦1085年ホラーサーン遠征参加している。これによってアルトゥクは南部クルディスターン要地ハルワーンをイクターとして与えられアルトゥク朝基盤形成された。アルトゥク家はこののちイラクシリア点々とすることになるが、その権力基盤たるトゥルクマーン集団一貫してクルディスターンのディヤール・バクルにあった。 アルトゥクは1085年モースルアレッポ支配するウカイル朝シャラフッダウラ・ムスリムと同盟して独立もくろむが、1086年ムスリム死去トゥトゥシュへの再従属余儀なくされた。トゥトゥシュはアルトゥクに聖都エルサレム中心とするパレスティナ与えた。アルトゥクは1091年ころに亡くなり息子スクマーンとイル・ガーズィーが後を継いだトゥトゥシュマリク・シャー没後1092年から1095年にかけて、大セルジューク朝スルターン地位をねらい、マリク・シャー息子バルキヤルークおよびムハンマド・タパル戦い、これに併せてアルトゥク家勢力をジャズィーラ導入したトゥトゥシュ亡くなると、シリア・セルジューク朝アレッポリドワーンダマスカスドゥカーク兄弟間の争いが始まるが、アルトゥク家はリドワーン支持したアルトゥク朝アレッポの関係はこのときに始まった兄弟間の争いが続くなかで1098年7月第1回十字軍によりアンティオキア陥落した。アルトゥク家は、これに対すモースルのカルブガー率いセルジューク朝包囲戦参加する大敗北を喫してしまう。さらに、エジプトファーティマ朝宰相アル=アフダルによるパレスチナ再征服とこれに続く十字軍による占領で、アルトゥク家はパレスティナを完全に失うことになったその後イル・ガーズィーはマリク・シャー息子ムハンマド・タパル仕えるようになるムハンマド・タパルは兄バルキヤールクとの争いの中でイル・ガーズィーにジャズィーラ内で統治権与えた一方ディヤール・バクルのマルディンでは、アルトゥクの孫ヤークーリーが捕らえられていたが、1097年ヤークーリーは計略によって街を奪取したスクマーンはうち続くジャズィーラにおける内部抗争利用して1102年、ヒスン・カイファーを、甥ヤークーリーからマルディン得て北方進出していった。マルディン領主になったスククマーンは、1104年ハッラーンの戦い十字軍破りエデッサ伯国伯爵ボードワン2世捕虜としている。彼はその後すぐに亡くなりスクマーン息子のうちイブラーヒームマルディンを、ダーウードがヒスン・カイファーを継いだ

※この「アルトゥク家の勃興」の解説は、「アルトゥク朝」の解説の一部です。
「アルトゥク家の勃興」を含む「アルトゥク朝」の記事については、「アルトゥク朝」の概要を参照ください。

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