アルトゥク家の勃興
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始祖アルトゥクはオグズ系トゥルクマーンのデュジェル族で、アナトリア東部にあって、当初東ローマ皇帝ミカエル7世への服属と対抗を繰り返していた。のちに大セルジューク朝の第3代スルタン、マリク・シャーの配下となり、1077年の対カルマト派作戦、1079年のトゥトゥシュ(マリク・シャーの弟で、のちにシリア・セルジューク朝の初代スルタン)配下でのシリア作戦、1084年のイブン・ジャヒール配下でのディヤール・バクル作戦、1085年のホラーサーン遠征に参加している。これによってアルトゥクは南部クルディスターンの要地ハルワーンをイクターとして与えられ、アルトゥク朝の基盤が形成された。アルトゥク家はこののちイラクやシリアを点々とすることになるが、その権力基盤たるトゥルクマーン集団は一貫してクルディスターンのディヤール・バクルにあった。 アルトゥクは1085年、モースルとアレッポを支配するウカイル朝シャラフッダウラ・ムスリムと同盟して独立をもくろむが、1086年のムスリムが死去、トゥトゥシュへの再従属を余儀なくされた。トゥトゥシュはアルトゥクに聖都エルサレムを中心とするパレスティナを与えた。アルトゥクは1091年ころに亡くなり、息子スクマーンとイル・ガーズィーが後を継いだ。 トゥトゥシュはマリク・シャー没後の1092年から1095年にかけて、大セルジューク朝スルターンの地位をねらい、マリク・シャーの息子バルキヤルークおよびムハンマド・タパルと戦い、これに併せてアルトゥク家勢力をジャズィーラに導入した。トゥトゥシュが亡くなると、シリア・セルジューク朝はアレッポのリドワーンとダマスカスのドゥカークの兄弟間の争いが始まるが、アルトゥク家はリドワーンを支持した。アルトゥク朝とアレッポの関係はこのときに始まった。兄弟間の争いが続くなかで1098年7月、第1回十字軍によりアンティオキアが陥落した。アルトゥク家は、これに対するモースルのカルブガー率いるセルジューク朝の包囲戦に参加するが大敗北を喫してしまう。さらに、エジプトのファーティマ朝の宰相アル=アフダルによるパレスチナ再征服とこれに続く十字軍による占領で、アルトゥク家はパレスティナを完全に失うことになった。 その後イル・ガーズィーはマリク・シャーの息子ムハンマド・タパルに仕えるようになる。ムハンマド・タパルは兄バルキヤールクとの争いの中でイル・ガーズィーにジャズィーラ内で統治権を与えた。一方ディヤール・バクルのマルディンでは、アルトゥクの孫ヤークーリーが捕らえられていたが、1097年ヤークーリーは計略によって街を奪取した。スクマーンはうち続くジャズィーラにおける内部抗争を利用して1102年、ヒスン・カイファーを、甥ヤークーリーからマルディンを得て北方へ進出していった。マルディンの領主になったスククマーンは、1104年にハッラーンの戦いで十字軍を破り、エデッサ伯国の伯爵ボードワン2世を捕虜としている。彼はその後すぐに亡くなり、スクマーンの息子のうちイブラーヒームがマルディンを、ダーウードがヒスン・カイファーを継いだ。
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