トゥトゥシュの時代とは? わかりやすく解説

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トゥトゥシュの時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/23 15:56 UTC 版)

シリア・セルジューク朝」の記事における「トゥトゥシュの時代」の解説

シリアセルジューク朝は、セルジューク朝中央政権大セルジューク朝)の第2代スルタンアルプ・アルスラーンの子トゥトゥシュ興したセルジューク朝西アジア現れ当時エジプト本拠地とするファーティマ朝支配下にあったシリアには、セルジューク朝尖兵として、セルジューク家の宗主権認めトゥルクマーン部族長アトスズ侵入していたが、ファーティマ朝との戦い膠着したため大セルジューク朝第3スルタンマリク・シャーにより弟トゥトゥシュシリア派遣され1078年に北シリア現在のシリア・アラブ共和国)に入った。翌1079年トゥトゥシュアトスズ処刑しダマスカスを自らの手中に収める1086年には北のアナトリア征服してルーム・セルジューク朝立てたスライマーン・シャーが北シリア主要都市のひとつアレッポ侵攻してきたためシリア北部巡ってルーム・セルジューク朝対立するが、トゥトゥシュはこれを破ってスライマーン戦死させ、アレッポまで勢力広げた。しかし、大セルジューク朝マリク・シャー一連の戦役干渉するため自ら北シリア進軍しアレッポアンティオキアを自らの直接支配下収めたため、スルタンとの対決怖れトゥトゥシュシリア北部領有諦めダマスカス後退したマリク・シャーシリア引き上げると、トゥトゥシュマリク・シャー支援受けてファーティマ朝戦い続ける。 1092年マリク・シャー没し大セルジューク朝後継者争いに入ると、トゥトゥシュアレッポ本拠地半独立政権形成したマリク・シャー配下将軍アク・スンクルを殺害し1094年までに北シリア勢力圏回復することに成功する。しかし、翌1095年イラン入って前年大セルジューク朝単独スルタンとなっていた甥バルキヤールク戦いレイ近郊敗死した。

※この「トゥトゥシュの時代」の解説は、「シリア・セルジューク朝」の解説の一部です。
「トゥトゥシュの時代」を含む「シリア・セルジューク朝」の記事については、「シリア・セルジューク朝」の概要を参照ください。

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