アルプ・アルスラーン
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アルプ・アルスラーン(ペルシア語:الپ ارسلان Alp Arslān、عضد الدولة ابو شجاع الپ ارسلان محمد بن چغرى بك ابو سليمان داود بن ميكائيل بن سلجوق ‘Azud al-Dawla Abū Shujā‘ Alp Arslān Muḥammad b. Chaghulī Bak Abū Slaymān Dā'ūd b. Mīkā'īl b. Saljūq 、1029年1月20日 - 1072年12月15日)は、セルジューク朝の第2代スルターンである(在位:1064年4月27日 - 1072年12月15日)。トゥグリル・ベクの甥で、トゥグリルとともにホラーサーン以西におけるセルジューク家の勢力確立に貢献した彼の兄弟チャグリー・ベクの息子。長兄にケルマーン・セルジューク朝の始祖となったカーウルドがおり、他の兄弟にスライマーン、ウスマーン、バフラーム・シャーらがいた。王朝の名祖であるセルジュークの曾孫にあたる。「アルプ・アルスラーン(アルスラン)」はテュルク語で「勇猛なるライオン」を意味する名前で、彼の軍事的な武勇や戦闘技術を称えて名づけられた。即位に際しアッバース朝カリフから下された尊称により、「偉大なるスルターン(スルターン)、王朝(ダウラ)の腕、勇敢の父、アルプ・アルスラーン・ムハンマド、信徒たちの司令者(アミール・アル=ムウミニーン)の証言者」(al-Sulṭān al-A‘ẓam‘Azud al-Dawla Abū Shujā‘ Alp Arslān Muḥammad Burhān Amīr al-Mu'minīn)と名乗った。
- 1 アルプ・アルスラーンとは
- 2 アルプ・アルスラーンの概要
- 3 スルターンの座
- 4 東ローマ帝国との戦い
- 5 国政について
- 6 参考資料
- 7 関連項目
アルプ・アルスラーン
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「大セルジューク朝」の記事における「アルプ・アルスラーン」の解説
詳細は「アルプ・アルスラーン」を参照 チャグリー・ベグの息子のアルプ・アルスラーンは、アナトリア半島のほぼ全域を併合するアルメニアとグルジアを1064年に加え東ローマ帝国に1068年に侵攻することで明確にトゥグリルの領土を拡大させた。1071年のマラズギルトの戦いでのアルスラーンの決定的な勝利は、事実上トルコのアナトリア半島侵攻に対して東ローマ帝国の抵抗を中立化させた。グルジアはイベリア州(英語版)を防衛することでアルプ・アルスラーンの侵攻から奪還できたが、アナトリア半島から東ローマ帝国が撤退することでグルジアがセルジューク族と更に直接接触することになった。1073年、ガンジャやドヴィン、ドミニシのセルジュークアミールは、成功裏にカルスの要塞を奪取したジョージ2世(英語版)との戦いでグルジアに侵攻し敗れた(英語版)。セルジュークアミールアフマドによる報復攻撃は、クヴェリスツィケでグルジアを破った。 忠誠を誓うアタベクとしてアルプ・アルスラーンは嘗ての東ローマ帝国のアナトリア半島からの土地を分割する権限をトルコ人の将軍に与えた。2年以内にトルコ人は数多のベグリク(現在のトルコのベイリク)の下でエーゲ海まで支配を伸ばした(東北アナトリア半島のサルトゥーク朝(英語版)、東アナトリア半島のシャーアルメンス(英語版)とメンギュジェク朝(英語版)、東南アナトリア半島のアルトゥク朝、中央アナトリア半島のダニシュメンド朝、西アナトリア半島の(後に中央アナトリア半島に移動する)ルーム・セルジューク朝(スライマーンのベグリク)、イズミル(スミルナ)のベイリク)。
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