捕虜となった皇帝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 01:57 UTC 版)
「マラズギルトの戦い」の記事における「捕虜となった皇帝」の解説
ロマノス4世がアルプ・アルスラーンに面会した時、アルプ・アルスラーンはほこりにまみれたぼろぼろの血まみれの男が全能のローマ皇帝だとは信じられなかった。敗残の男がローマ皇帝だとわかると彼は皇帝の首を靴で踏みつけ、彼に地面に口づけを強要し、歴史上有名な会話が交わされた。 アルプ・アルスラーン「もし私が貴殿の前に捕虜として引きだされたら、貴殿はどのようにする?」 ロマノス「たぶん、貴殿を殺すか、首都コンスタンティノポリスの街頭でさらし者にするだろう」 アルプ・アルスラーン「私の罰は、それよりはるかに重い。貴殿を赦免し、自由にする」 アルプ・アルスラーンはロマノスを丁重に遇した。そして、戦闘前に提案した和議の条件を再び提案した。 ロマノスは1週間、捕虜として抑留された。この時、スルタンは皇帝にテーブルでの食事を許可している。一方で譲歩は同意された。アナトリアの周辺部のアンティオキア、エデッサ、ヒエロポリスとマラズギルトはセルジューク朝に割譲された。一方、手つかずのアナトリアの重要な中心が東ローマ帝国に残されることになる。スルタンから1000万枚の金貨の支払いがロマノスの身代金として要求され、これはロマノスに高すぎるとみなされ、アルプ・アルスラーンはかわりに150万枚の金貨を頭金にし、毎年36万枚の金貨を支払いを求めることで当座の費用を減額した。さらに、政略結婚がアルプ・アルスラーンの息子とロマノスの娘の間でなされることになった。アルプ・アルスラーンはロマノスに多くの贈答品と二人のアミールと100人のマムルークの護衛をコンスタンティノポリスまでの道中につけた。 彼の帰還後、ロマノスはその統治が深刻な問題にあることが分かった。彼は忠実な軍の育成を試みたにもかかわらず、彼はドゥーカス家との3度の戦いに敗れ、失脚させられ、目をつぶされ、プロティ島に追放された。ほどなく、彼は残忍な目つぶしが原因の感染症がもとで死去した。ロマノスの、彼が守ろうと奮戦したアナトリアの中心地の最期の時は、つぶれた顔でロバに乗っての恥辱であった。
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