捕虜となった乗組員
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/12 18:09 UTC 版)
「呂号第六十一潜水艦」の記事における「捕虜となった乗組員」の解説
前記のとおり、アトカ島で撃沈された際に脱出した乗組員5人を米軍は収容したが、彼らは捕虜としてカリフォルニア州にあった日本軍捕虜尋問施設「トレイシー」に収容されたことが戦後確認されている。その後、1943年2月に彼らはウィスコンシン州の別の捕虜収容施設に移されるが、そのうちの牧野一則上等兵曹は結核を発症したという理由で(本艦以外の他の捕虜2人とともに)1944年5月にコロラド州デンバーの陸軍病院に再度移送される。収容先の陸軍病院で牧野上等兵曹は他の2人とともに抵抗を試み、1944年8月に切腹を図り(未遂)、10月29日に看守にモップの柄で実力行使に及んで全員が警備兵に射殺された。射殺された捕虜は当初デンバーに葬られ、のちにカンザス州の陸軍墓地に改葬、墓碑も建立された。牧野らが死亡したことは日本の情報当局も当時把握していたが、遺族には伝えられることがなく、戦後18年が経過した1963年になって、生還した本艦搭乗の元捕虜のもとに「留学した自衛官からの情報」として厚生省援護局から問い合わせが入って墓の存在が初めて明るみに出た。元捕虜の粘り強い働きかけ(山崎拓の助力を得ている)によって、牧野上等兵曹らの遺骨が日本に返還されたのは、死去から42年が経過した1986年のことである。
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