捕虜となり日本へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/16 15:23 UTC 版)
「アウグスト・ローマイヤー」の記事における「捕虜となり日本へ」の解説
1914年1月、21歳で海軍へ入隊し、中国へ渡った。当時の乗組員名簿は既に戦火で焼失してしまっており、ローマイヤーがどのような経路で中国へ渡ったかを示す確たる手がかりはないが、家族の所持する写真や当時のドイツ海軍所有船の航行状況などから、海軍がチャーターした商船に乗り込んで中国へ渡り、チンタオ号という河川用砲船に乗った、とされている。同年8月3日、ドイツがフランスに宣戦布告すると、広州市の河川領域で哨戒任務にあたっていたチンタオ号はドイツの租借地・膠州湾租借地の中心である青島市へと向かった。日本はイギリスの要請を受け、ドイツに対して租借地の引渡しを要求、これが決裂に至ると8月23日、ドイツに対して宣戦布告を行った。10月31日、青島の戦いが始まると青島市へ到着したローマイヤーの部隊もこれに参戦した。ほどなくしてドイツ軍は敗戦を喫し、ローマイヤーは捕虜として捕らえられ、熊本県の捕虜収容所へ移送された。1915年6月9日の収容所換えによって久留米市へ渡った。ローマイヤーはここで祖国への帰国を諦め、解放後、日本でどのように生活していくかを考えるようになったという。 食生活の違いから、収容所でのドイツ人捕虜による料理参加は早い段階で認可され、食肉加工経験を持つローマイヤーは調理場を担当した。ローマイヤーは捕虜の料理を作りつつ日本語を習得し、1920年の解放までを過ごした。解放後、ドイツ人捕虜には帰国や在留の選択肢が与えられたが、久留米ではローマイヤーを含む約21名が日本在留を希望し、ローマイヤーは東京帝国ホテルへの就職を決め、東京へと渡った。
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