捕虜の乗船
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 10:45 UTC 版)
太平洋戦争中に日本政府は、南方作戦で捕虜となった連合国軍の兵士を日本本土での労務に従事させることを決めた。捕虜の本土移送は1942年8月頃から適当な輸送船に少数を便乗させる五月雨式で始まり、同年10月頃から本格化した。そこで、ちょうど香港で修理の終わった「りすぼん丸」も、香港俘虜収容所からの大規模な捕虜移送に投入されることになった。当時の香港には約8700人の捕虜が収容中で、第一陣として616人が「福建丸」により東京へ移送済みだった。「りすぼん丸」には香港の戦いで降伏したイギリス兵ら1816人の捕虜が乗船した。前甲板の第1船倉が主にイギリス海軍関係の捕虜、同じく第2船倉がモンクリーフ・スチュワート中佐以下ミドルセックス連隊(英語版)やロイヤル・スコット連隊(英語版)などの捕虜、船橋直後の第3船倉はピット少佐以下主に王立砲兵連隊(英語版)関係の捕虜の居住区に割り当てられた。約10カ月間も食糧や医薬品の支給が不十分な収容所生活を送っていたため、乗船した時点ですでにおよそ75%は赤痢やジフテリア、脚気の患者だった。9月25日の乗船から出港までの2日間にジフテリア感染の疑いで収容所へ戻される者も数人出た。捕虜のほか、少尉を指揮官とし衛生兵2人を含む護送要員26人と、通称号:波第8610部隊などの内地帰還部隊その他便乗者を含め陸軍将兵756人が乗船した。船の運航は徴用された船長以下の民間船員75-76人が担当した。また、鉄スクラップ400トン、タングステンなどの鉱石、鹵獲高射砲その他物資総計1676トンも積み込まれた。捕虜輸送船といっても病院船のような特別の標識はされず、当時の日本の軍用輸送船・商船一般と同じく船体は灰色一色の戦時塗装であった。護送指揮官は上官から、遭難した場合には捕虜全員の救助が最善だが、遭難時に全員救助は不可能な場合は可能な限りだけ救助はすることが命じられていた。一方、船長は、捕虜全員分の救命胴衣を軍に要請して用意させている。捕虜たちは渡されたカポック製の救命胴衣を枕代わりに使った。
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