捕虜の処遇
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「ケトルクリークの戦い」の記事における「捕虜の処遇」の解説
ピケンズは75名を捕虜にしたが、その大半は負傷していた。また40ないし70名のロイヤリストが戦死した。ピケンズ隊は9名が戦死、23名が負傷していた。ボイド隊の多くは、戦場から逃げた者やピケンズが釈放した者も含め故郷に戻った。戦闘に続く日々にかなりのロイヤリストが愛国者に捕まるか、降伏した。それらの者の運命は不明である。キャンベル中佐は、ボイドが徴募した270名が自隊に加わったと報告した。キャンベルは彼らをロイヤル・ノースカロライナ連隊に編入した。 戦闘後、ピケンズが負傷したボイドに近づくと、戦前はサウスカロライナに住んでいたボイドはピケンズと知り合いであり、ピケンズに妻にブローチを届けボイドの運命を知らせるよう頼んだ。ピケンズはその願いを実行した。 ロイヤリストの捕虜の中で、約20名のみが負傷していたにも関わらず生き残った。ピケンズは先ず彼らをオーガスタに、その後ナインティシックに連れて行き、多くのロイヤリスト捕虜とともに拘留した。サウスカロライナの当局は見せしめのために多くのロイヤリストを反逆罪で裁判に掛けた。約50名が有罪とされ、ケトルクリークで捕まった者を含め5名が絞首刑に処された。イギリス軍指導層は、裁判が行われたとしても、戦争捕虜と考える者に対するこの処遇に激怒した。プレボスト将軍は捕まえている愛国者捕虜に対する報復をすると脅したが、アメリカ側に捕まっているイギリス軍捕虜が同じような処遇を受けることを恐れ、思いとどまった。1779年4月、プレボストはサウスカロライナの海岸部に侵攻した。これはリンカーン将軍のジョージアを回復しようとい動きに対する対抗策であり、サウスカロライナの役人は有罪としていた者の大半を解放することになった。
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捕虜の処遇
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詳細は「日独戦ドイツ兵捕虜」を参照 詳細は「第一次世界大戦におけるドイツの捕虜(英語版)」を参照 第一次世界大戦では約800万人が降伏して捕虜収容所に収容された。全参戦国がハーグ陸戦条約に基づき捕虜を公正に処置すると公約した結果、捕虜の生存率が前線で戦った兵士の生存率よりも高くなった。最も危険なのは降伏の瞬間であり、降伏の意を示した兵士が射殺されることもあった。単独で降伏した者は少なく、大部隊が一度に降伏することが多かった。一方、収容所にたどり着いた捕虜の状況は赤十字社や中立国の監察もあってそれなりに良く、第二次世界大戦での状況よりもはるかに良かった。 例としては、ガリツィアの戦い(英語版)でロシア軍がオーストリア=ハンガリー軍10万から12万人を捕虜にし、ブルシーロフ攻勢でドイツ軍とオーストリア=ハンガリー軍約325,000-417,000人がロシア軍に降伏、タンネンベルクの戦いでロシア軍9万2千が降伏した。1915年2月から3月のプシャスニシュの戦い(ドイツ語版)でドイツ軍1万4千がロシア軍に降伏、同年8月にカウナス駐留軍が降伏すると、ロシア軍約2万が捕虜になった。また第一次マルヌ会戦ではドイツ軍約1万2千が連合国軍に降伏した。ロシアの損害(戦死、負傷、捕虜)のうち、25から31%が捕虜であり、オーストリア=ハンガリーは32%、イタリアは26%、フランスは12%、ドイツは9%、イギリスは7%だった。ロシア軍の捕虜250-350万を除く連合国軍の捕虜は約140万人で、中央同盟国の損害は約330万人(その大半がロシア軍への降伏だった)。ドイツ軍は250万人の捕虜を、ロシア軍は220万から290万人の捕虜を、英仏軍は約72万人の捕虜を捕らえた。その大半は1918年の停戦直前に捕らえた捕虜だった。日本軍は約5,000人、アメリカ軍は4万8千人の捕虜を捕らえた。 日本は戦時下においては陸海軍とも国際法を遵守し、捕らえたドイツ帝国軍とオーストリア=ハンガリー帝国軍の捕虜は丁重に扱った。青島と南洋諸島で捕獲した捕虜約4700名は、徳島県の板東俘虜収容所、千葉県の習志野俘虜収容所、広島県の似島検疫所俘虜収容所など各地の収容所に送られたが、特に板東収容所での扱いはきわめて丁寧で、ドイツ兵は地元住民との交流も許され、近隣では「ドイツさん」と呼んで親しまれた。このときにドイツ料理やビール、オーケストラをはじめ、収容所から広まった数多くのドイツ文化が日本に伝えられた。スペイン風邪の世界的流行の中、死亡者はわずか9人のみであった。またドイツでは食糧不足があったものの死亡した捕虜は5%に過ぎなかった。 反面ロシアでの状況は悪く、捕虜も非戦闘員も飢餓が多かった。ロシアでは囚われていた捕虜の15から20%が死亡、中央同盟国に囚われたロシア兵の8%が死亡した。また非キリスト教(イスラム教)国のオスマン帝国は国際法の教育が全く行われておらず、捕虜をひどく扱うことが多かった。1916年4月のクート包囲戦の後、イギリス兵士約11,800人(主に英領インドの兵士)が捕虜になったが、そのうち4,250人が捕虜のまま死亡した。捕虜になった時点で健康状態が悪い者が多かったが、オスマン軍は彼らに1,100km行進してアナトリア半島まで行くよう命じた。生還者の一人は「獣のように扱われた。脱落することは死に等しかった」と述べた。その後、生還した捕虜はトロス山脈を通る鉄道の建設に駆り出された。 第一次世界大戦が停戦した後、敗戦した中央同盟国に囚われた捕虜はすぐに送還されたが、日本を除く連合国とロシアに囚われた捕虜は同様の扱いを受けられず、多くが強制労働に駆り出された。例えば、フランスでの捕虜は1920年まで強制労働を強いられた。捕虜の釈放は赤十字が連合国軍総司令部に何度もかけあった後にようやく行われた。ロシアでのドイツ人捕虜の釈放はさらに遅く、1924年時点でもまだロシアに囚われていた捕虜もいた。これは第二次世界大戦のソ連と同様であった。
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