捕虜のマニラ集合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/10 21:50 UTC 版)
沈没時、「鴨緑丸」には日本人乗船者のほかに、1619名あるいは1622名の連合軍兵士などの捕虜が乗船していた。内訳は以下のとおりであった。 アメリカ軍兵士および抑留中のアメリカ国民:1556名 イギリス軍兵士:35名 オランダ軍兵士:15名 アメリカ軍協力者:16名 それより先のレイテ島の戦いが始まったころ、これまでカバナツアン(英語版)とダバオにいた捕虜および抑留者が、日本への最終輸送を目的としてモンティンルパのニュー・ビリビッド刑務所に集合させられた。最終的に日本へ輸送する段階になった時、捕虜らは長時間かけて徒歩によりビリビッドからマニラに移動する。比島俘虜収容所本所所長、第十四方面軍兵站監として捕虜の処置に関わっていた洪思翊陸軍中将は、のちにマニラ軍事法廷で徒歩で移動させたことを認めているが、一部はトラックで輸送したことも証言している。長期の徒歩による連行の末にマニラに到着した捕虜らは、マニラ港第7桟橋から「鴨緑丸」に乗船した。この由来から、マニラ港第7桟橋は「ミリオンダラー・ピア」との俗称がつけられた。
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