俘虜収容所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 14:12 UTC 版)
日露戦争が始まると、叔父藤堂紫朗の計らいで情報局に配属され、6月松山旅団司令部附として松山俘虜収容所に赴任した。1904年(明治37年)8月収容された通信員タゲーエフと文学について語り合い、トルストイの人道主義を理想として郡中旅行を企画したほか、ロシア帝国によって祖国を逐われたポーランド人ロマンドスキーの収容所視察に影響され、ポーランド人捕虜にポーランド語の教育を施すことを企画した。戦争激化につれ人道主義の限界を感じていたところ、西本願寺日高某に渡された清沢満之の著書に感銘を受け、仏教に傾倒した。 捕虜の増大に伴い、名古屋師団司令部附として名古屋派遣され、名古屋俘虜収容所開設に携わった。 1906年(明治39年)春の捕虜送還を終えて除隊となり、5月頃伯父大越成徳の日英シンジケート設立を手伝ったが、間もなく中止となった。
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