俘軍を率いる族長として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 07:55 UTC 版)
「伊治呰麻呂」の記事における「俘軍を率いる族長として」の解説
伊治(公)呰麻呂の名が六国史に現れるのは、宝亀9年(778年)6月に前年行われた海道・山道蝦夷の征討に際しての戦功を賞し、外従五位下の位階が授けられたことを記す記事においてである。これは地方在住者として最高の位であり、これによって彼は官人たりえる身分を得たと考えられる。 この時期の東北地方は、宝亀5年(774年)、海道蝦夷が蜂起して桃生城を奪取した桃生城襲撃事件を契機として、後世「三十八年戦争」とも称される戦乱の時代に突入していくが、当初から政府が大規模な征討軍を派遣していた訳でなく、当初は現地官人と現地兵力が、敵対する蝦夷と武力衝突していた。天平9年(737年)の征討将軍大野東人以来中央からの派遣軍は絶えており、それが復活するのは皮肉にも後に呰麻呂本人が引き起こす反乱が原因である。 ともあれ、この時期は政府によって各国に置かれた軍団兵と、政府側に帰属した蝦夷・俘囚によって構成される俘軍という二本立ての現地兵力によって、敵対する蝦夷と武力衝突が起きていた時期であるが、その中で呰麻呂は俘軍を率い政府側で戦功を重ねていた。
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